『兎』金井美恵子 父親は庭の物置小屋で、兎の首にナイフを入れて血管を切り、逆さまに吊るし、すっかり血抜きが出来るまでの間、ゆっくりといつもより多めの朝食をとるのです。(中略)夕方になると、事務所から帰って来た父親は、物置小屋で兎の料理にとりかかり、肝臓と腎臓と生ソーセージのペーストを兎の腹に詰め物して、玉ねぎやシャンピニオンやトマトといろいろな香辛料を入れて煮込むのです。シチューにすることもあったけれど、父親もあたしも、香辛料のきいた詰め物料理の方がずっと好きでした。
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●作者紹介 1947年11月3日、群馬県高崎市生まれ。母親の影響でものごころつく前から映画に親しみ、また絵を描くことが好きであったという。5歳で父と死別。12、13歳で安岡章太郎、大江健三郎、岡本かの子、堀田善衛、丹羽文雄などを読む。ヌーヴェル・ヴァーグに衝撃を受け、ゴダールが好きになる。14、15歳のころから現代詩に傾倒。 |
●作品紹介 1972年、著者24歳の6月、雑誌「すばる」第8号に「兎」掲載。翌年筑摩書房より「兎」を表題作として短編集『兎』刊行。1992年日本文芸社『金井美恵子全短篇』及び1997年講談社文芸文庫『愛の生活・森のメリュジーヌ』に収載。 「When suddenly a White Rabbit with pink eyes ran close by her.」 ――冒頭に引用されている『不思議の国のアリス』そのままに、「私」は散歩の途中で見かけた大きな白兎のあとを追いかける。その兎、実際は兎のかぶりものをした少女=「あたし」は「私」になぜ自分がそのような姿をしているのかを物語る。 「あたし」とその「父」は毎月1日と15日に飼っている兎を殺して料理するのを楽しみにしていた。他の家族は、兎という「小さな無防備な生き物」を殺し、それをさばいて皮を剥ぐことを「卑しい恥ずかしいこと」と忌み嫌い、決して兎を食べようとはしなかったが。ある朝、父娘以外の家族は忽然と姿を消し、そして2人は仕事や学校といった時間を縛るものから開放され、好きなときに、好きな物をおなかいっぱいに食べて、満腹になれば眠るという幸福な日々を過ごすようになる。 毎日のようにほふられながら、その一方でどんどん数を増していく白兎たち。濃密な血と獣の匂いが充ちた閉ざされた空間の中で、次第に「あたし」は、命を奪うことそのもの、兎の断末魔の痙攣や、血の肌ざわり、内臓の感触を楽しむようになる。やがて兎の血を全身にあび、兎の毛皮にすっぽりとくるまってぴくぴく動く長い耳をつけて、「あたし」はピンク色の目をした兎の姿をするようになった。 白兎、ピンクの瞳、赤い血といった色彩の描写が、衝撃的で鮮やかな映像を喚起する。さらに兎の毛皮の肌触り、温かく粘りのある血の質感、それらのにおいまでも生々しく伝える文章に誘い込まれ、いつのまにか読み手も「あたし」と「私」と、そして兎とひとつに溶け合うような不思議な心地にさせられる物語。 |
血の匂いに満ちた甘美な食卓 兎の屠殺からはじまる、兎をメインにしたこの父と娘の食卓、その豪華さは、「この上ない健啖ぶり」という表現でさえまだ控えめすぎるほどの量がある。平均的に日本人よりボリュームのある皿を平らげるフランス人でも、コースで食べるならば兎1羽は4人分とされるが、2人で1羽を食べてしまう。さらに鳩のローストなど盛りだくさんな料理は、レストランでのように1品ずつ供されるのではなく、まさに食卓の足がきしむほど、いちどきに並べられているのだろう。 |
食卓は兎を屠殺した物置小屋に据えられているため、料理の匂いに血の匂いが入り混じる(おそらくは獣の死臭も)。でもそれが食欲を失わせるどころか、かえってそそっているようである。血の匂いのする食卓で、食べる快楽を共にする父娘には、何か煽情的なものが感じられる。 さらに後に語られる少女の兎殺しはよりはっきりとエロチックである。そして血なまぐさくはあっても不思議と残虐さは感じられない。社会と隔絶し、少女と兎だけになったこの物語の世界で、食べる人と食べられる兎は過剰に触れ合っている。その果てに、両者に親密な関係が結ばれ、殺すものと殺されるものの境界があいまいにされているのではないだろうか。 「食べる」ということは、基本的に他の命を奪い、自分のものとすることである。「血肉になる」という言葉もあり、食物の消化吸収を「同化」ともいうが、少女は文字どおり兎と「同化」し、そのことに至福を感じている。これこそ食べる快楽の究極、美食の境地のひとつかもしれない。 |
小阪ひろみ |