進路探究|Q. 調理や製菓で、将来像が漠然としています…。|Questions(クエッションズ)│辻調グループ - 食のプロを育てる学校

食の世界を目指す新入生からの質問と、
卒業生のインタビュー

まだ卒業してからの道のりが、漠然としています...

どんな夢や目標に向かって、どうやって実現してきましたか?

憧れがきっかけに

なることもあると思うんです。

澤田州平さん
株式会社セブンスイノベーション 代表取締役/中国菜 エスサワダ 総料理長
ホテルで経験を積み香港で 修行、名古屋、東京を経て大阪で料理長に。2016年に独立後、様々な業態の店舗を経営。
18

高卒後フリーターに、近所の中華料理店のバイトで料理の面白さにハマる

工業高校卒業後、お金を貯めて美容師の専門学校に行こうかと考え、たまたまアルバイト先に選んだのが近所の中華料理店。
「料理の経験はゼロでしたが、仕込みで庖丁を使い始め、見よう見まねでまかないの料理もつくるようになると、自分的にはお店で出しているものよりもおいしく感じたんです (笑)」
20

大阪の『辻󠄀調理師専門学校』へ進学、和洋中を1年で学ぶ

より良い就職先を斡旋してもらえることを念頭に辻調を選択。
「自分で働いて準備した学費。全額自分で支払っている以上、もとを取らないと…というつもりで通っていました(笑)。中国料理以外も学べ、それぞれ味わえたのも、後に生きてくる良い経験になりました」
21

安定を重視しホテルへ就職、2年半勤務する

「朝みんなが来る前と夜みんなが帰ったあとにも必死に練習していました。仕込みも先輩をじっくり観察するようにして覚え、料理長が来たときには終わらせておくようにすれば、また次の仕事を教えてもらえますからね。努力の甲斐があり、かなり早い段階で、花形でもある鍋の担当を任されるようになりました」
25

『スタンフォードホテル香港』で研修、積極的に働きかけ多彩な指導を受けられる

香港人オーナーシェフの神戸市『鄧家荘(とうかそう)』を経て香港で修業。
「日本人だからという壁を取り払おうと、翌日話したい文章を事前に学習した中国語であらかじめ考え、教えてもらいたいという姿勢で積極的に示したのも良かったようで、皆さん親切に指導してくれました」
26

名古屋店のオープンを控えた香港『福臨門酒家』の門を叩く

「ここでも『今日はこれを勉強したい』と頼むようにして、本場の技術をたくさん学ばせてもらいました」
帰国後は『福臨門酒家』名古屋店のオープニングスタッフに。基本、調理自体は中国人が行うため、まな板の担当となったが、鍋を振りたいとアピールしたところ、任せてもらえる機会にも恵まれた。
28~33

東京の『火龍園』を経て、『グランドハイアット東京』の2番手へ

「その後は、やはり圧倒的にレベルが高い東京へ。まず入った『火龍園』では、毎日築地で仕入れをしていて、日本の食材の素晴らしさに改めて気づかされました。オーナーが休みの日には自分が行くようになったので、いろんな食材も見られましたし。

次に移った『グランドハイアット東京』は、勤務歴の長い人たちばかりで、ポジションをとるのにひと苦労。『やれば必ず認められる』ということを信じて、とにかく人一倍頑張ってやりたい仕事も任せてもらえるようになりました。とことんやれば、自分の成長にもなるし、居心地も良くなる。それって本気でやれば、期間の問題じゃないんですよね」
28~33

『ジョーズシャンハイニューヨーク』グランフロント大阪店の料理長へ

『グランドハイアット東京』の料理長からの評価は高く、歳上の料理人も副料理長もいたなか、2年ほどでついに二番手まで昇り詰めそろそろトップに立って自分で考えた料理を出したと考えていたところ、『ジョーズ シャンハイ ニューヨーク』グランフロント大阪店の料理長を探しているという話が舞い込んだ。
「支店とはいえ、コース料理は全部自分で考えられ、人を動かす経験も積めたので勉強になりました」
35

中華旬菜サワダをオープン、1年足らずでミシュラン一つ星を獲得する

「自分がオーナーになれば、スタッフの働き方や休日などの待遇面も含めて、すべて自分で決められる。そう考えて独立開業を決めました」
開店後、自身の感性で展開していった新しい中国料理の世界が評価され、わずか1 年足らずで日本版ミシュランガイドで一つ星を獲得。大阪にある街場の中国料理店では唯一の快挙だった。
44

大阪・東京に多角的に店舗展開、人材育成に注力し、テレビ出演を通じて食の世界への憧れを広めている

「いつかお店をもちたいなら料理を学ぶだけでは不十分です。そりゃ会社で活躍してくれるのが一番うれしいですが、独立開業をめざすならそれを応援したい。出会ってくれた人が成長してくれることが、自分にとっては一番大切なことだからです」

「料理人をめざすのって、『かっこいい』『自分もこうなりたい』といった憧れがきっかけになることも多いと思うんですよ。それもメディアに出る理由の一つです。成功すれば、一流企業をも超えられるのがこの世界。やった成果もわかりやすいうえ、お金をもらって人に喜んでもらえ、お客様の笑顔も見られる。さらには生産者の応援もできる。素晴らしい仕事だと実感しています」

仕事というより、ライフワーク的に楽しんだ方がいい

安田翔平さん/江本賢太郎さん
Kabi オーナーシェフ/オーナーソムリエ
海外での経験も積み上げてきた同窓生二人の偶然の出会いが、比類ないレストラン「kabi」を生み出す
18

フランス校への進学を念頭に進学。

学業に打ち込む道も選択できたが、漠然と進学することに疑問を感じたという。「フランス料理店の雰囲気が昔から好きで、料理人をめざそうと思ったんですよね。親からは高校卒業後は県外へ出ろ、若いうちに海外にも行けと言われているうちに、自分も行きたいと思うようになって、フランス校にも進めるエコール 辻󠄀 大阪へ(2010年卒業)」(江本さん1989年山口県生まれ)

フランスで修業した父親が営む地元のレストランで、小学生から手伝うようになり高校卒業後は父の勧めるエコール 辻󠄀 大阪へ(2011年業)
「印象深かったのは、フランスの歴史の授業。音楽も大好きなんで、芸術との関わりや、こんな流れがあって今こうなってるっていうルーツを探れるのが面白かったです」(安田さん1991年岡山県生まれ)
19

フランス校での学びは、その後の基盤づくりに。

「休日には研修先の歳の近いソムリエがワインの産地、ロワールの畑に連れて行ってくれ、どんどんワインやソムリエという存在が好きになっていきました。だけど同時に、サービスの存在ってものすごく大事なのに、とくに日本ではシェフと違いないがしろにされている現状に疑問がわいてきて…」(江本さん)

リヨンの外れにある五つ星ホテル『ロトンド』のレストランで研修。肉料理やスペシャリテ(看板メニュー)を扱うセクションを任され、飛躍的に成長した。卒業後は、今やミシュランガイドで二つ星を獲得している大阪のフランス料理店『ラ・シーム』に就職。忙しく働くなかで、「基礎中の基礎は自然と身についた」と振り返る。(安田さん)
21~25

ワインの説明と英語力をレベルアップしたい。

帰国後は、日本を代表するフランス料理店『銀座レカン』を経て、麹町の『オー・プロヴァンソー』へ。ワインリストの作成や、グラスワインのチョイス等にも携わる。
「大使館の多いエリアで、英語も話せるようにならなければと痛感しました。ワインの説明も、つくるところから学んで実感を込めたいと思い、世界一のワインの大学を調べ、英語圏にあるカリフォルニア大学デービス校に留学したんです」(江本さん)
21~25

一つ星獲得に貢献、そしてデンマークへ。

東京・白金『ティルプス』のオープニングスタッフに。スーシェフとして、ミシュランガイド史上最速の一つ星獲得に貢献する。
「フランス料理がベースだったんですが、シェフの修業先だった北欧のエッセンスが入っていて面白かったんですよね。その頃の話を聴いているうちに、自分も学んでみたいと思うようになり、デンマークの星付きレストラン『カドー』へ研修に行ったんです」(安田さん)

「デンマークはめちゃくちゃ冬が長いんです。だから春や夏に野山で積んだ山菜なんかをピクルスにして冬に食べたりして。そういうのが日本人の感覚にも近くて面白く、日本から送ってもらった材料でぬか漬けや味噌をつくって料理に応用していたんですよね。そういった経験を重ねるにつれ、日本で店をやりたいと思うようになって、帰国しました」(安田さん)
26~33

生まれ育った環境も、ベースとなる経験も近い二人が意気投合し、共同経営へ。

「たまたま翔平が話しかけてきたんですが、1年違いで同じ学校に通っていたし、フランス校へ行ったのも半年違いだったし、先生の話とか共通の話題で盛り上がっちゃったんですよ。それから毎日一緒に飲むようになったら、お金がなくなってきて。ワイン代を稼ぐのに二人でイベントをやろうかと始めたのが『カビ』のきっかけです(笑)」(江本さん)

「だけど東京で開くにも、仕込みをするのも家だったし、セラーもないからワインもため込めない。そろそろ場所がほしいなと探していたら、隣のワインバーのオーナーがここを紹介してくれて。全部ノリで決めました」(安田さん)
26~33

せっかくの人生、仕事というより、ライフワーク的に楽しんだほうがいい。

「そのとき旬のおいしさや、日本の四季の大事さを知ったおかげで、今も生産者さんと常に連絡を取り合って、食材ありきで考えています。よく日本料理って引き算だっていうけど、僕の場合、手の込んだ料理が多くて。いっぱい載せて、いろんな味や香りを掛け合わせていくイメージです」(安田さん)

「彼が考える味の組み合わせも、すごく好きなんですよね。環境や経験のベースが近いから、材料を見たら、どう仕上げたいかスッと入ってくる。それをもとにドリンクのペアリングを考えるのも面白いし、自分が使いたいもの、つくりたいカクテルに合わせてもらうのも楽しい」(江本さん)
26~33

好きなことをしたいっていうハングリー精神。

「自分で学べばいいと思ってるから、(スタッフに)教えたことないですね。僕の場合、知りたかったら自分から訊いてきたし、『全部やってやろう』と思ってこれまでやってきたし。だからこそ、最初にクラシカルなフランス料理の基本を学んでおいたのは、今でも本当に良かったと思っていますよ」(安田さん)

「飲食って好きじゃないと上にも行けないと思うんですよ。『やらされている』って感覚があると、いいところまで昇れない。せっかくの人生、好きなもののために使うなら、仕事というより、ライフワーク的な考え方で楽しんだほうが良くないですか? 『好きなことをしたい』っていうハングリー精神は失わず、突き進んでほしいですね」(江本さん)

学びや経験はすべて生きると信じて進む

食べ歩き友だちだった同窓生が結婚し、力を合わせて故郷でパティスリーを開業。基礎力と人とのご縁の大切さを感じる。

黒田高広さん/黒田知里さん
パティスリー ルノワール オーナーシェフ マダム
基礎から学び応用力を高めていった夫婦が、シェフの地元出雲でパティスリーを開業。
18

製菓の面白さに惹かれ進学。

「料理と違い、お菓子って形のないところからつくるでしょう。卵、砂糖、小麦粉、バターなどの同じ材料でも、作り方によって違うものができてくる。その面白さを体験実習で感じて、パティシエをめざそうと決めました」(黒田高広さん 辻製菓専門学校2007年卒業 島根県出身)

幼い頃からお菓子づくりが好きだった知里さん。洋菓子をメインとするカフェを開くのが夢だった。進学した辻󠄀製菓専門学校で高広さんと同じクラスになり、「いつかお店を開きたい」という共通の夢で意気投合する。(黒田知里さん 辻製菓専門学校2007年卒業 辻調理師専門学校2009年卒業)
19

入学すると、知らないことばかりで面白い。フランス菓子のベースを学ぶ。

「辻󠄀のルセット(レシピ)って、ザ・フランス菓子って感じの古典的なものなんですよ。だから、すごく甘かったり、お酒がきつかったりするんですが、先生方も『お店で出すなら、こうアレンジしたらいい』と教えてくれて。もともとのベースがあって、そこから人や店によって違うものになっていくのも面白い。どれも同じじゃなく、自分で決められるんだという部分にも、とても惹かれました」(高広さん)
20~23

独立を目指す人を採りたいという店に就職。

「自分の将来を考え、厳しいお店で修業をし、地元に戻って開業されているところで働きたかったんですよ。もう一つのお店と迷っていたんですが、面接の2日前、たまたま『お菓子のお店Kazu』のOBだった先輩の講習が学校であり、お話を伺って決意。そもそも独立をめざす人を採りたいという方針で、当時は4年で卒業だと面接の時点で言われました」(高広さん)

卒業後はさまざまな経験を積もうと、朝はパン店、昼はスフレチーズ専門店など、数々のアルバイトに励むも、道が絞れず1年後、辻󠄀調理師専門学校のカフェクラスに再進学。2009年の卒業後は帝国ホテル大阪に就職する。(知里さん)
20~23

4年間ですべてを学ぶ。

「育てた人材を次々に送りだすのは、教える側にとっては非効率的かもしれませんが、シェフ(山本一人オーナーシェフ)自身がそういうお店で修業されていて。全国各地に人脈が広がるのは、大きな喜びがあるという考えだったようです。4年間ですべてを学ぶため、半年でポジションが変わるので大変でしたが、その分、集中して学べました」
お菓子の基礎はもちろん、礼儀作法も徹底的に叩き込まれた。コンクールにも積極的に参加。「西日本洋菓子コンテト」の飴細工部門では銅賞に輝いた。(高広さん)
20~23

接客を学ぶことで人としても成長できた。

「由緒あるホテルなら、基礎からしっかり学べそうだなと志望しました。1年目はペストリーの販売職だったんですが、言葉遣いや礼儀など、接客面もしっかり教えてもらえ、人としても成長できたと思います。外国の方を含め、本当にいろんなお客様がいらっしゃったので、対応力はかなり鍛えられましたね。販売は、お客様の表情が見られたり、いろんな感想が聞けたりして楽しい。喜ばれるとうれしくなり、この仕事が大好きだと感じていました」
その頃、食べ歩き友だちだった高広さんと付き合うことに。2年目には製菓担当となるが、加古川への移住を機に退職。(知里さん)
24~27

新しいケーキが次々と生み出されていく刺激的な日々。

2011年にお店を卒業すると、就職時に迷っていたもう一つのお店、兵庫県加古川市の『ヌーヴェルパティスリーともなが』へ。
「ほかとは全然違う個性的なお店で、シェフがすごい職人なんです。ケーキのデザインがとても斬新で、常に新しいケーキが次々と生みだされていくので、毎日の仕事が刺激的でした。基礎を身につけてから働けたことが、結果、とても良かったと感じています」(高広さん)
2012年には高広さんの地元にあった結婚式場『ヴィラ・ノッツェ コルティーレ出雲』で結婚式を行う。そこが高広さんの分岐点にもなった。
27~31

結婚式場への転職を決意。

「2店舗に勤め、ためてきたものを地元で試して反応を見たかったんですよね。自分がある程度、自由にできて、ゆくゆく近くで独立開業しても、迷惑がかからないところ。そう考えると、結婚式場がベストだなと。ただ、『Kazu』のOBからは、あまり賛成されなかったんです。式場に入って独立した人がいないとか、式場は既製品が多いとか…。でも自分が式を挙げたから、ちゃんと手作りされていることもわかっていたし、前例がないなら自分がつくればいい。むしろ必ず成功させようと気合いが入りました」(高広さん)
27~31

友人の結婚式にと考えた「出雲抹茶ショコラテリーヌ」が商品化される。

地元の老舗茶舗『桃翠園』を家業とする幼なじみが挙式する際に、自分のところのお抹茶も使ってほしいというリクエストをもらう。
「僕自身が結婚するとき、妻の実家へ挨拶に行くのに何かつくっていこうと、友人のお母さんに頼んで『桃翠園』の抹茶を送ってもらったんですよね。その際、『いつも応援しています』という手紙を添えてもらえたことにも感動し、いつか恩返しをしたいと思っていたので、考えに考え抜きました」(高広さん)
こうして完成したのが、出雲産の1kg10万円の高級抹茶を使った『出雲抹茶ショコラテリーヌ』だった。結果は大好評。友人の兄である『桃翠園』の会長から、その場で「通販で売らせてくれないか」と依頼を受け、力になれるならと快諾。後にそれが評判を呼ぶことになる。
32~35

地域活性化や地域貢献などへの姿勢が認められ、起業支援を受けて独立開業へ。

『出雲抹茶ショコラテリーヌ』の好調と、チャレンジしてきたコンクールでの実績などが功を奏し、「令和元年度わくわく島根起業支援事業」に採択され、開業にこぎつける。
「初日には、『Kazu』グループのスタッフやOBたちが9人も応援に駆けつけてくれ、山本シェフ自らもお祝いに来てくださいました。独立する教え子のもとには、必ずそこまで足を運ばれるんです。スタッフを泊まりがけで送りこんでくださったり、OBにも電話して応援を要請してくださったり…。本当にすごい人だと思います。とてもありがたい。『Kazu』グループのつながりは今でも強く、頼もしいです」
32~35

出産と並行して事務系スキルを磨く。

知里さんも2回の出産と並行して、事務系のスキルを磨き、独立への準備を進める。
「実家が自営業で、母が事務をしていたんですよ。それでお店をやるなら必要だと言われていて。出雲に移住してからは喫茶店でのアルバイトを再開したんですが、2人目を授かったタイミングで退職。職業訓練校に通い、簿記と電子会計実務の3級、Excelの資格を取得しました」
32~35

ゆくゆくはカフェ営業もてがけたい。

若くして夢をかなえた黒田夫妻。現在はテイクアウトのみだが、より広い場所へ移転し、ゆくゆくはカフェ営業も手がけたいと、さらなる目標に向けて奮闘中だ。最後に、未来の後輩たちへのアドバイスをもらった。
「基礎は本当に大事です。学校で学んだことは、すべて役に立っています。やってきたことで無駄になる経験なんて一つもない。すべてが生きると思いながら、頑張ってほしいですね」(知里さん)
32~35

自分を磨くことに時間を使ってほしい。

「そのときは『こんなことに意味があるのか』と思ったとしても、5年後10年後に気づくこともあるので、学校の授業も先輩の言葉も聞き流さずにストックしたほうがいい。ここ数年で働き方改革も進み、働く側にとっていい環境になったと思います。だけど同じ30歳になったとき経験している仕事量が全然違ってくるので、ぜひ自由な時間を使って自分を磨いてほしいと思います。また、自身の出身地での起業を一度イメージしてみて、地域創生や起業支援に関わる様々な制度を調べてみるのも、未来への勇気につながると思います」(高広さん)

好きなものを追いかけ続けてきたことが、

すべて今につながっている。

タサン志麻さん
家政婦・料理人
老舗フランス料理店やビストロなどで修業を積み、結婚を機に、家政婦として仕事を開始。“予約がとれない伝説の家政婦”としてメディアから注目され、ベストセラー出版・テレビ出演等で活躍。
18

大学進学と比較して、好きなことを探求できる専門学校を迷わず選択。

「つくる楽しさはもちろん、周りに日本の文化があってこそ成り立っているのも魅力でした。日本料理を学ぼうと、実家の山口から大阪の辻󠄀調理師専門学校へ。迷いはありませんでした。高校は進学校だったんですが、大学で4年間、明確な目的もないままに勉強するよりも、自分が好きなことを追究したかったんです」
19

いざ入学してみると、初めて食べたフランス料理に心を奪われた。

なかでも印象的だったのは、野菜のスープ。
「高級なイメージを覆すほっとする味で、こんな素朴な一面もあるんだと、フランス料理との距離がぐっと縮まりました。日本料理と同じく、周辺の歴史や文化も面白くて…。高校までの勉強は嫌いだったのに、知りたい気持ちがかきたてられてフランスに関する本を読み漁り、バイトをしながらフランス語も習いに行きました。当時はすべてが楽しくて新鮮。取りつかれたように、はまっていきました」
20

フランス校へ。しかし周囲のレベルが高く、まったくついていけない。

「不器用だったので、実技試験も一人だけ時間内にできなかったりと、全然だめで…。だけど語学には自信があり、知識では誰にも負けないよう必死で勉強し、自分なりに実技の努力も重ねました」
その甲斐あって、三つ星『ジョルジュ・ブラン』の研修生に選ばれる。
20

フランス人宅を訪れて食べた家庭料理に心惹かれる。

「シンプルだけど味わい深くて…。レストランとは違う、温かな家庭の雰囲気も魅力的でした。会話が絶えず、座っているだけで楽しかったんです。だけど共に働く仲間が目指しているのは華やかなフランス料理の世界。周囲に好きだと言えず、その思いがずっと続くことになりました」
21

帰国後上京し、自分が心から「ここで働きたい」と思えるところを探す。

アルバイトをしながら食べ歩きを続け、4カ月ほど経ち出会ったのが、四谷にある老舗のフランス料理店だった。
「そのガツンとした料理に、すごく衝撃を受けたんですよ。料理から出てくるシェフのパワーみたいなものが、今まで食べた感じと全然違って、『絶対ここに就職したい』と。最初は雇わないと言われたんですが、料理に対する思いを話しているうちに、『お前だったらできるかもしれない』と受け容れてもらいました」
22~24

シェフの料理や考えに傾倒。フランス文化についても貪欲に学んだ。

仕事は厳しかったが苦ではなかった。シェフの料理や考えに傾倒し、勤務時間外にも自主的に勉強。フランスの歴史や文学小説、音楽や映画なども貪欲に学んでいった。しかしその文化を知れば知るほど、家庭的な料理への憧れが高まっていく。
「3年は絶対に辞めないと決めていたんです。だけどそれを過ぎたとき、糸が切れたようになってしまって。すごく悩んだ末に、退職を願い出ました」
24~25

一旦アルバイトで繋ぐも、その経験が後に役立つ。

知り合いの紹介を受け、業務用のタレやソースを開発する食品会社でアルバイトをすることに。限られた予算内で理想の味に近づける、研究者のような仕事だった。
「フランス料理をやるつもりで学んできたのに、『何をやっているんだろう』と思っていましたが、今になるとその経験が役立っています。限られた条件下で何を大切にするべきか、勉強になりました」
25~35

就職活動を再開し、感銘を受けた高田馬場のビストロへ。

「レストランの華やかな料理じゃなく家庭料理が好きだといったことをお話したら共感していただけ、シェフの考え方や料理の感性も好きだと感じ、実際に食べさせてもらったら、『これこれ、こういうの!』という確信があり、すぐ働かせてくださいとお願いしました」
25~35

仕事で多忙な生活にもかかわらず、休日には、朝美術館に行って、午後からフランス語のレッスン、夕方映画を見て、食べ歩きにも行く。

「お店のことがすごく好きになっていたので、『私がなんでもやるのでシェフと2人で働かせてください』とお願いし、自ら仕事漬けの生活にしたんです。にもかかわらず週1回の休みには、朝美術館に行って、午後からフランス語のレッスン、夕方映画を見て、食べ歩きにも行く。おかしいぐらい、フランス文化にのめり込んでいました。シェフとほとんど2人でやってきたから、家族のような強い絆を感じていました。ずっとシェフと一緒にやりたいとも思っていました」
25~35

勉強したいことは山ほどあるのに時間がない。

しかし再び悩みは募る。勉強したいことは山ほどあるのに時間がない。シェフにも相談し、人を入れてもらったが、やはりうまく動かせない。そんな時期が続き、退職を選択することに。
「本当に申し訳ないことをしました…。10年間のすべてだったのに、こんな辞め方をしなきゃいけなかったのは自分でもショックでしたが、思いが強すぎるあまり空回りしてしまって、当時はそれしか選べなかったんです」
35

焼き鳥店でのアルバイトで出会ったフランス人、ロマンさんと結婚

退職後は、フランスへ家庭料理の勉強に行こうと、お金を貯めることにした。フランス文化に触れていたいと考え、多くの在日フランス人が働く焼き鳥店へアルバイトに。そこで語学を学ぶために来日していたフランス人、ロマンさんと出会い、結婚へと至る。
「今までの経験が活かせ、勉強できる時間をもてる仕事はないだろうかと職を探しました」
こうして2015年、家政婦になることを決意し、家事代行マッチングサービスに登録。しかし依頼の中心は掃除。当初はジレンマを感じることもあったという。
35

フランス家庭料理への思いから、“伝説の家政婦”と呼ばれるように。

「同級生たちが独立してお店をもっていくなか、『これでいいのかな』という思いもありました。だけど次第に、『料理がすごくおいしかった』とレビューを書いてくれる人が増えてきて…。日々食べる料理だから、和洋中なんでもつくれるように勉強しましたが、なかでも知ってほしいフランスの家庭料理を織りまぜたところ、噂が広まっていったんです」
35

自分の想いと勉強してきたことが形になった。

「今は本を出したり、メディアに出させてもらったりして、大好きなフランスの家庭料理が家にある材料でもつくれると大きな声で言えますし、食べてもらうことやつくってもらうこともできている。苦しい時代は長かったですが、ようやく今、自分の想いと勉強してきたことが形になったので、人生どうなるかわからないですね。肩書きにはこだわらなくなりました」
35

一生懸命やっていれば必ず形になるはず。

「誰にも相談できず悩んできましたが、フランス料理に対する思いはずっと変わらず、勉強を続けてきました。そのことが今につながっています。料理が好きだと飛び込んだ世界のなかで、みんなと違ったっていい。一生懸命やっていれば必ず形になるはずなので、これからめざす人たちも周りに振り回されず、自分が好きだと思うものを追いかけ続けてほしいです」

おいしいものを提供して喜ばれるのがうれしい

という感覚を持ち続ける。

木邨有希さん
株式会社パピーユ 料理ディレクター
ワイン販売を軸に、自社葡萄畑や醸造所、飲食店などを展開している株式会社パピーユの料理ディレクターとしてイベントの企画や料理教室など幅広く活動。
18

製菓を学んだあと、料理も学んで即戦力になろうと、調理師専門学校へ進学。

「結婚して専業主婦になった母が、『これからの時代、手に職をつけなさい』と言い続けてくれたんですよ。専門的なことだけじゃなく、全部できるところがいいと学校を探し、一番楽しそうに見えた辻󠄀調(辻󠄀調理師専門学校)を選びました」
入学すると、これまでにないほど真面目にノートをとり、学ぶことを楽しんだ。授業中の教壇はすでに職場のようで、プロ同士の仕事を目の当たりにしたと振り返る。
19~24

お菓子の道と迷うが、辻調での体験から、フランス料理の道を選択。

「卒業後もお菓子の道に進もうと考えていましたが、辻󠄀調でとても素敵な授業をする個性的な先生たちと出会ってしまい…めちゃめちゃ迷いました(笑)。だけどもともと、グランメゾンで出されているようなデザートやお菓子を日常的に提供したいという夢があったので、フランス料理の道を選択。フランス校への留学もしてみたかったんですが、早く現場に出たいという思いが勝ちましたね」
19~24

大箱で重ねた経験が、技術の基盤。数をこなさないと、理想の質には到達できない。

早い段階から仕事を任せてもらえる環境がいいと志望したのが、多角的に事業展開を始めていた株式会社エノテカ。大阪の『ブルディガラ』で経験を積み、新規開業の神戸の『ソスタンツァ』へ。
「仕事漬けの毎日でしたが、せっかくなら言われる前にできるようになろうと、日々がむしゃらに頑張っていました。一人で100人前を担当するのが当たり前のような大箱で重ねた経験は、私の技術の基盤。数をこなさないと、理想とする質には到達できないという考えのもとにもなっています。一流と言われる方たちも皆、過去には壮絶な数を経験されていますからね」
19~24

東京でも仕事をしてみたいと希望を出し、六本木の『テロワール』に異動。

「ワインに合わせるコース料理を手がけられる現場で、良い経験になりました。料理を勧めるサービス人がいて、楽しませられる知識と経験があってこそ成り立つ世界なんだなと。名だたる料理人が一目置いていた当時の総料理長、金子(浩二)さん(現『クスクス ルージール』オーナーシェフ)に仕込んでもらえたのも財産。いずれはと考えていたフランスへ行くノウハウも教えてもらえました」
25~26

南仏の食材に興味を持ち、プロバンスのレストランへ。

2003年に退職後、渡仏。プロヴァンスにあるレストラン『ラ・ファリグール』で約2年間、修業を重ねた。
「南仏の食材に魅力を感じていたんですよね。履歴書を送ったなかで、一番いい返事をくれたのが、このお店でした。オーナーシェフと3人だったので、仕事はなんでもやらせてもらえたんですが、バカンスの時期はものすごく忙しくて。かなり鍛えられましたし、現地の人が普段食べている食文化も体験でき、いい勉強になりました」
26~29

現地での経験を経て、フランス以上にフランスを感じる、熱いレストランへ。

滞在中に知り合ったシェフたちと話すと、必ず出てくるのが「あのときのメンバーは最高だった」という思い出話だった。それに憧れて帰国後は、実際に訪れて、最もチーム全員が熱そうだと肌で感じた東京・青山の『アディング・ブルー(当時のグランドシェフは三谷青吾さん シェフは長澤宜久さん)』の門を叩く。
「海外ゲストもガンガン来るし、異言語が飛び交うし、ヨーロッパの香りが濃厚。大人の遊び場みたいなお店で、フランスにいたとき以上にフランスのエスプリ(精神・機知)や料理人魂を学べました」
26~29

飲食店のライブ感が味わえて、楽しく過ごす。

「何十品もの固定メニューが日替わりであるうえ、その日の食材をわんさかワゴンに載せ、『なんでも調理しますよ!』っていうスタイルだったんですよね。本当においしいものを食べてほしいというのが根底にあるから、スタンダードなフランス料理もジャンルレスな料理も同時に提供できるし、この人たちがフィルターを通してつくればここの料理になる。めちゃくちゃ大変でしたが、飲食店のライブ感が味わえて、すっごく楽しかったです」
29~34

ソムリエの資格を取得し、1日1組限定のレストランをオープン。

フランス料理とワインは切っても切り離せない。いずれはしっかり学びたいと考えていたため、退職後はソムリエ資格を取得。2008年には、東京・下北沢に1日1組限定の『レストラン マナ』をオープンさせた。
「たまたまいろんな話が重なって、お店をやることになったんですよね。1日1組のレストランなんて、名だたる料理人が最後にやる形態だと思っていたんですが…。お庭を見ながら食事ができる一軒家のダイニングが素敵すぎたので、この空間を楽しんでもらおうと、営業時間も決めず、料理もサービスも全部自分でやることに。目標がないと頑張れないので、1,000組を集客したら閉店すると決めて始めました」
29~34

自由に時間が使えるようになったことで、国内外の生産者を訪ねるように。

最初は予約の入らない日もあったが、徐々に評判を呼び、多くの人から愛される場所になっていく。週末には、単品やワインを提供するバーのような営業や、音楽と組み合わせたイベントなども展開。自由に時間が使えるようになったことで、国内外の生産者を訪ねるようにもなった。
29~34

生産者とお客様をつなぐ催しも数多く開催。

「旅も人も好きなので、生産者というより人に会いに行く感覚です。素敵な食材を見つけたら、お客様にも紹介したいし、喜んでもらいたいし…。新たに出会うことで、自分のなかから違うものが生まれるのも好きなんですよね。よくイベント好きって言われるんですが、そうじゃなく、好きな人と仕事がしたいんです。つくったものを食べてもらう姿を見ることがあまりないというお声から、生産者とお客様をつなぐ催しも多く開きました」
34~39

尊敬できる料理人やソムリエと力を合わせたことで、チームで働く喜びを実感。

そろそろ1,000組に到達しようかという頃。所用で大阪を訪ねた際、できたばかりの『フジマル醸造所』にたまたま立ち寄り、出会ったのが同所を営む株式会社パピーユ代表の藤丸智史さんだった。

「また東京で呑みましょうという話になり、実現したときに言われたのが『東京に進出したいから一緒に働いてくれないか』という言葉でした。心身ともに出し切った感があり、閉店したら旅をしようと考えていたんですが、しばらく一人だったのでチームでの仕事がしたくなっていたんです」
34~39

『FUJIMARU 浅草橋店』の立ち上げに力を尽くす。

「食材を使い続けなければ、つくり手さんはいつかいなくなってしまう。だけど自分一人のお店では、使える量が限られている。会社に入ることで、自分が料理をする以外の場でも提供できればと考えました。これまでに得たワインの知識も活かせるし、生産者さんと料理人をつなぎ、さらにはお客様へおいしさを届けられる。そんな橋渡し役になれそうな気がして、藤丸さんからのお誘いを受け入れる覚悟をしました」
目標を達成し『レストラン マナ』を閉店した2013年、株式会社パピーユに入社。ワインショップ&ダイナー『FUJIMARU 浅草橋店』の立ち上げに力を尽くした。
39~41

1年4ヵ月の産休を経て北九州市を拠点に仕事を継続。

「働けるスキルがあれば、どんな生活環境でも、どこで何をしていてもいい。藤丸はずっと『辞めなくてもいい会社をつくりたい』と公言していて、コロナ禍前からそういう方針だったんです。子供ができても、介護をすることになっても、生活は変わるものですが、ライフステージにおいてやむを得ないことが発生し、食の世界を離れる人がいるのはもったいない。そんな彼の考えに賛同しています」
翌年4月に復帰し、現在は福岡県北九州市で暮らしながら仕事を続けている。
41

0歳児を抱っこしながら全国をめぐる。

「復帰後は、0歳児を抱っこしながら全国にある食材や調味料の生産者のもとを訪ね、飲食店や一般のお客様にご紹介する方法を考え、実践してきました。百貨店での催事などでは、食材のセレクトからメニュー考案、調理まで私が担当。知ってファンになってもらうことが、生産者の方への一番の応援になりますからね。九州での展開もどんどん拡大中。以前と表現方法は違いますが、喜びのシェアという面では変わっていませんよ」
41

“好き”を見つけて、大事にできることは、生きていくうえでとても大切。

「好きなことをやって、誰かに喜んでもらうなんて、こんな幸せなことはない」と微笑む木邨さん。迷ったときは、自分がおいしい、楽しいと思うほうを選び、その経験はすべて今につながっているという。
「喜んでもらえた笑顔を見ると、やめられないなと常に思います。“好き”を見つけて、大事にできることは、生きていくうえでとても大切。忙しくなりすぎると悩む人もいますが、そんなときに思い出してほしいのが、もともと自分は何が好きだったのかという原点です」
41

好きがあふれ、「あれもこれもやりたい」というのは全然いいと思う。

「私の場合、食いしんぼうなこと、人に喜んでもらうのがうれしいこと。好きがあふれ、『あれもこれもやりたい』というのは全然いいと思うんです。それらをくっつけられるのは、自分にしかできないことかもしれませんからね。…昔は、お店をもったら子どもは産めないと思っていたんですが、『大丈夫、できる』と声を大にして言いたいです。やりたいことを諦める必要はありません。その人に魅力があれば、どんな形態でも続けられますよ」

必死で練習を重ねた。

ウエディングケーキづくりも一番に任せてもらえるよう。

井上真依さん
株式会社Plan・Do・See パティシエール/キッチンマネージャー
株式会社Plan・Do・Seeに就職。パティシエ、更には料理人も経験、ウエディングケーキの開発にも携わる。人事の統括として東京本社勤務後、京都『丸福樓』のキッチンマネージャーを任される。
18

高校の担任教員からは大学進学を勧められたが、意志は揺らがなかった。

地元京都にある中高一貫校の進学コースに在籍していたが、高校へ上がる前には製菓の道へ進むことを決めていた。
「料理と迷いましたが、お菓子のほうがつくっていてより楽しかったし、人にあげて喜ばれるのもうれしかったんですよね。何校か足を運び、フランス留学の道もある大阪の辻󠄀製菓専門学校に決めたんです。ここなら就職先にも困らないだろうと、父にも後押しされました」
18~19

辻製菓専門学校のクラスメイトとは、今も連絡をとる大切な存在。

入学後の授業はどれも楽しかった。グループ実習を行う前には、うまく時間内に完成させられるよう、誰が何をどういう段取りで担当するかのスケジュールを立て、担任教員に提出。助言をもらい、OKが出るまで何度も考え直させられた。
「お菓子づくりはスケジューリングがとても大事。その経験が在学中からできたのはありがたかったです。この習慣のおかげで、クラスメイトと日常的に会話を重ねるようにもなり、今でも連絡をとる大切な存在になりました」
18~19

就職活動を開始し、自分に合うパティスリーを探す。

卒業後は、やはり日本で実務経験を重ねようと、就職活動を開始。自分に合うパティスリーを探していたが、「ここだ」と思えるところと巡り会えずにいた。
「夏休みになり、たまたま京都の『ザ・リバー・オリエンタル』へ食事に行ったんですが、デザートもおいしかったし、働いている人がみんな楽しそうで…。パティシエさんとも話させていただき、そこで初めてレストランや結婚式場で働く道もあることに気づいたんです。こういうお店で仕事がしたいと調べ、母体であるプラン・ドゥ・シーを知りました」
19~21

各地でレストランや婚礼・宴会場などを運営する株式会社Plan・Do・See入社。

志望どおり『ザ・リバー・オリエンタル』の配属となり、クローズ後は『ザ ソウドウ 東山 京都』へ異動となった。
「ディナーのデザートの盛り方をすべて覚え、在庫の管理も担当。徐々に仕込みや食材の発注も手がけるようになりました。週末は婚礼のデザートを用意していましたが、目が回るほど忙しかったです」
徐々に仕込みも手がけるようになり、2年ほど経つと、デザートの開発にも携わるようになった。
21~22

ダミーのケーキで必死に練習を重ねてスキルを上げ、ようやくデビュー。

「同期や同い年のアルバイトもいるなか、自分からやると言わないと仕事がもらえない。ウエディングケーキづくりも一番に任せてもらえるよう、ナッペ(クリームを塗る工程)の練習も率先して行いました。余ったクリームをいち早くもらい、ダミーのケーキで必死に練習を重ねてスキルを上げ、ようやくデビューできたときはうれしかったです」
22~25

料理にも挑戦し、デザートを含めたコース料理すべてが開発できる人材に。

入社から約3年後、兵庫県神戸市の『オリエンタルホテル』に異動。2010年3月の開業に合わせ、キッチンスタッフ=料理人として働くことになった。
「当時はめちゃくちゃ生意気だったので、自分はなんでもできると思い込んでいたんですよね(苦笑)。現場の仕事は一通りできるようになったから、次のステップを考えようかと思っていたところ募集がかり、チャレンジしてみてもいいかなと希望を出しました」
22~25

飲食店のライブ感が味わえて、楽しく過ごす。

パティシエから料理人への転身は社内でも初めてのこと。井上さんにとっては軽い気持ちでの挑戦だったが、着任するキッチンマネージャーの志を知ってスイッチが切り替わる。
「『料理人は食材を見極めて料理をするのは得意だけど、きっちり計って同じようにつくるのは苦手。パティシエはきっちり計って同じようにつくるのは得意だけど、食材を見極めて何かを変えるのは苦手だから、両方できるようになってほしい』と言われ、だったら気合いを入れてやってみようと踏み込んだんです」
22~25

料理コンテストのパスタ部門で1位を獲得する。

「1年後にはパティシエに戻るという話をしたとき、先輩に『せっかくなら全セクションを経験して、デザートまで含めたコース料理を開発できたら最高じゃない?』と言ってもらい、新たな目標が生まれました」
キッチンは未経験だったものの、一からのチャレンジやチームでの活躍が評価され、同年、社内のMVPに輝いた。2012年には社内の料理コンテストのパスタ部門で1位を獲得。副賞のフランス旅行で1週間、食べ歩きやワイナリー見学などの学びを体験できた。
22~25

最終的にはレストランの二番手を任せてもらえる。

「それまで自分の技術を高めるのに必死でしたが、キッチンを経験し、みんなで力を合わせて頑張るチームワークの楽しさを覚えました。周りから認めてもらえる喜びも味わい、どんどん仕事が楽しくなってきたのもこの頃。3年目には先輩に助けてもらいつつ、およそ2カ月ごとに変更するコース料理の開発にも携わり、最終的にはレストランの二番手を任せてもらえました」
25~29

再びパティシエに。ウエディングケーキづくりにのめり込む。

約3年間、キッチンで経験を積み、2013年から再びパティシエに。ウエディングケーキづくりにのめり込み、ご要望に応えるためにさまざまな技術をつけたいと思うようになった。ほかのパティシエが帰ってからもひとりで練習。シュガークラフトやアイシングクッキーなどの外部講習にも自主的に参加し、腕を磨いた。そんな努力が実を結び、2014年の夏頃、「ウエディングケーキプロジェクト」のメンバーに抜擢される。
25~29

ウエディングケーキプロジェクトのメンバーとして、多彩なケーキを開発。

「全社のパティシエ5人で半年以上かけて、新しいデザインのウエディングケーキを開発しました。ウエディングプランナーも交えて、どういうデザインがいいか、どういうケーキがあったらうれしいか意見を訊きながら1人10台ほどつくったんですが、年明けの撮影時にはみんなで『かわいい!かわいい!』って言いながら撮影して(笑)。社内の人間はもちろん、お花屋さんやカメラマンさんなど、チームで進める仕事がすごく楽しかったです。一体感を強く感じ、みんなで褒め合いながら、お互いのプロ意識を高められたと思います」
25~29

お客様の大切な1ページを彩れる、幸せな仕事だと実感する。

仕上げたケーキを見て、「よし、今日もかわいくできた!」とうれしくなり、この仕事を通じて得られる幸せを再認識するという。
「新たな人生のスタートに関われることって、そうそうないですよね。自分の手でつくったものが、お客様の大切な1ページを彩れる…この仕事に巡り会えたことが私にとって大きな財産です。『もし自分がお客様だったら』という行動指針のもと、お客様に喜んでいただくことを最重視するプラン・ドゥ・シーでの仕事こそが、自分の天職だと感じています」
29~33

「女性スタッフたちのキャリア、選択肢、未来を広げてほしい」という期待を受け、キャスティング(人事担当)のポジションとして東京の本社へ異動

2017年、全社で婚礼施工数の多い愛知県名古屋市の『ザ・カワブン・ナゴヤ』へパティシエの責任者として異動。ケーキのクオリティやチームワーク、メンバーのスキルなどの向上に尽力した。1年ほど経った2019年8月、なんとキャスティング(人事担当)のポジションとして東京の本社へ異動が決まる。
29~33

キャスティングを経験してから、会社がより好きになった。

「熱心に指導してウエディングケーキづくりを担当できるまでに育成したスタッフが、『真依さんじゃなかったら、ここまでなれていなかった』と言ってくれ、やって良かったなと感じました。私が推薦しキャスティングのメンバーになってくれたキッチンスタッフも、『人の人生にこれほど向き合ったことはないです』と人間的にも育ってくれて…。チームみんなで喜べだり、一緒に向き合って問題を解決できたりすることが、すごく多いのがプラン・ドゥ・シー。キャスティングを経験してから、会社がより好きになりました」
34

京都『丸福樓』のキッチンマネージャーに抜擢。

京都にある任天堂旧本社を改装したホテルで、また新たな挑戦をすることになった。女性で初めてのキッチンマネージャーということで、社内でかなり話題になり、若手からの反響も大きかったという。
「『背中を追いかけます!』と言ってくれた後輩もいて、すごく応援してもらっています。プレッシャーもありますが、選んでもらった期待に応えられるチームをつくろうと。10人ぐらいの小さなチームなので、すべての責任はもちつつも、いちメンバーとして一緒に楽しめればなと考えています」
34

妥協しない姿勢が必要なことは忘れないでほしい。

入社当初はパティシエとしての独立開業も考えていたというが、この会社にいたほうが、もっと面白いこと、大きなこと、ワクワクできることに挑戦できる。そう考え、プラン・ドゥ・シーでよりよいチームをつくっていくことが目標となった。
「オリジナルのウエディングケーキをつくりたいと志望してくる学生も多いですが、それができるのも地道な練習があってこそです。毎回、同じクオリティに仕上げるためには、積み重ねが欠かせません。失敗は許されない分野なので、自分自身でどこまで突き詰めるかが重要。どんな状況下でも最善で最高のものを出したいという、妥協しない姿勢が必要なことは忘れないでほしいです」
34

やりたいことに取り組める環境を見つけて、自分の未来を切り拓いてほしい。

「パティシエをめざしたときには想像もつかなかった人生ですが、この会社に入って本当に良かったとしみじみ感じています。いろんなことに興味をもって挑戦するのは、その先の自分の人生の糧になるので、これから社会に出る人たちにも、たくさん見て、たくさん経験して、自分が夢中になれることを見つけてほしい。働く場所を探すとき、自分のやりたいことが会社の方向性とマッチしているかは本気で調べたほうがいいです。社会人になるって、自分の脚で自分の人生を歩むこと。本気でやりたいことに取り組める環境を見つけて、自分の未来を切り拓いてほしいです」

辻調で学んだことで今につながっていることは何ですか?

澤田州平さん
株式会社セブンスイノベーション 代表取締役/中国菜 エスサワダ 総料理長

1年間で和洋中が学べる辻調で、中国料理以外に日本料理や西洋料理もそれぞれ味わえたのは、後に生きてくる良い経験になりました。

安田翔平さん
Kabi オーナーシェフ

僕の場合、知りたかったら自分から訊いてきたし、『全部やってやろう』と思ってこれまでやってきたし。だからこそ、最初にクラシカルなフランス料理の基本を学んでおいたのは、今でも本当に良かったと思っていますよ。アレンジするにも、ベースはあったほうがいい。5歳の息子も料理人になりたいって言っているけど、まず母校へ入れようと思ってるし(笑)

黒田高広さん/黒田知里さん
パティスリー ルノワール オーナーシェフ マダム

基礎は本当に大事です。学校で学んだことは、すべて役に立っています。やってきたことで無駄になる経験なんて一つもない。すべてが生きると思いながら、頑張ってほしいですね。

そのときは『こんなことに意味があるのか』と思ったとしても、5年後10年後に気づくこともあるので、学校の授業も先輩の言葉も聞き流さずにストックしたほうがいい。同じ30歳になったとき経験している仕事量が全然違ってくるので、ぜひ自由な時間を使って自分を磨いてほしいと思います。

タサン志麻さん
家政婦・料理人

辻󠄀静雄前校長の著作を入学当初から何度も読み返し、“文化も含めたフランス料理”に対する考え方に魅了されました。『フランスってこうなんだ』とワクワクし、イメージするだけで楽しかったです。

木邨有希さん
株式会社パピーユ 料理ディレクター

材料を渡すタイミングが悪かったり、仕込みが悪かったりすると、教授から助手の先生へ厳しく指導が入るんですよ。それがすごくリアルで痺れました。各ジャンルのプロの先生方がそろっていたのは、思い返しても貴重。

当時のノートは、いまだに愛用しています。何回めくっても発見があるし、クラシックと呼ばれるものたちには色あせないものがある。具体的な知識を細かく教えてくれた学校に感謝しています。授業で素晴らしい食材を惜しみなく使っていたのもありがたかったです。知っていれば、選択できるようにもなりますからね。

井上真依さん
株式会社Plan・Do・See パティシエール/キッチンマネージャー

お菓子づくりはスケジューリングがとても大事。グループ実習を行う前には、うまく時間に完成させられるよう、誰が何をどういう段取りで担当するかのスケジュールを立てて、担任教員に提出。助言をもらい、OKが出るまで何度も考え直させられました。その経験が在学中からできたのはありがたかったです。この習慣のおかげで、クラスメイトと日常的に会話を重ねるようにもなり、今でも連絡をとる大切な存在になりました。

料理のチカラを学びとる

1960年創立
体系立てて学べる独自のカリキュラム

オープンキャンパス

東京・大阪
全国各地の出張相談会
オンラインでも開催

辻󠄀調理師専門学校 東京
2024年入学

辻調のオープンキャンパスで感じたのは「授業の中での情報量の多さ」です。お菓子作りの実習の中で「なぜ、シュークリームは膨らむのか?」を説明する時にも、「生地の水分が蒸発する」だけじゃない理由を教えてくれます。2年間でどれだけ成長できるか?と考えた時に、この情報量の違いは大きいなと感じました。

辻󠄀調理師専門学校 東京
2024年入学

地元で開催された辻調の体験実習には10回くらい参加しました。ただ見て学ぶだけではなく、これがなぜ起きるか?その理由を詳しく教えてくれて「もっと知りたい、面白い」と思いました。普段、ネットで調べて動画を見ながらモヤモヤしていたことが、目の前で実際に手を動かしながら教えてもらうと全然違うと感じました。

辻󠄀調理師専門学校 東京
2024年入学

辻調のオープンキャンパスで、先生と生徒の間の「信頼関係」を感じました。辻調の学生の方が実習で先生をサポートする様子に、上下関係はありつつも距離感の近さがあって、暖かい雰囲気を感じました。お菓子作りが好きで、お菓子を届けたいっていう想いに溢れた場で、技術だけじゃなくて、人としても成長できそうな学校だと思いました。

辻󠄀調理師専門学校 東京
2024年入学

中学高校の机に座って聞くだけの授業は苦手でした。辻調では、座学の講義でも試食があって、匂いや味を感じながら、理論や根拠を教えてくれるので、記憶に残ります。オープンキャンパスでは一人一台の調理台で、基本的な知識から教えて頂きましたが、こちらが質問したら、先輩方からも先生からもしっかりとした答えが帰ってくるのがすごいなと思いました。

辻󠄀調理師専門学校 東京
2024年入学

辻調の先生は、技術の高さと知識量はもちろん、料理の説明の仕方がわかりやすくまとまっていたり、実際目の前で調理をしている時でも、お客様との対話の仕方のレベルの高さをすごく感じました。たまたま理事長とお話しする機会があったのですが「フレンチやイタリアンは、一皿目、二皿目の独創性がすごく肝心」という言葉を頂いて、それも初めて知った感覚で、学校全体の「教える」ということのレベルの高さを感じました。

アンケートご協力のお願い

Questionsをご覧頂きありがとうございました。
ご回答いただきましたアンケート内容は、サイトのコンテンツ改善など今後の運営の参考にさせて頂きます。