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製菓を学んだあと、料理も学んで即戦力になろうと、調理師専門学校へ進学。
「結婚して専業主婦になった母が、『これからの時代、手に職をつけなさい』と言い続けてくれたんですよ。専門的なことだけじゃなく、全部できるところがいいと学校を探し、一番楽しそうに見えた辻󠄀調(辻󠄀調理師専門学校)を選びました」
入学すると、これまでにないほど真面目にノートをとり、学ぶことを楽しんだ。授業中の教壇はすでに職場のようで、プロ同士の仕事を目の当たりにしたと振り返る。
19~24
お菓子の道と迷うが、辻󠄀調での体験から、フランス料理の道を選択。
「卒業後もお菓子の道に進もうと考えていましたが、辻󠄀調でとても素敵な授業をする個性的な先生たちと出会ってしまい…めちゃめちゃ迷いました(笑)。だけどもともと、グランメゾンで出されているようなデザートやお菓子を日常的に提供したいという夢があったので、フランス料理の道を選択。フランス校への留学もしてみたかったんですが、早く現場に出たいという思いが勝ちましたね」
19~24
大箱で重ねた経験が、技術の基盤。数をこなさないと、理想の質には到達できない。
早い段階から仕事を任せてもらえる環境がいいと志望したのが、多角的に事業展開を始めていた株式会社エノテカ。大阪の『ブルディガラ』で経験を積み、新規開業の神戸の『ソスタンツァ』へ。
「仕事漬けの毎日でしたが、せっかくなら言われる前にできるようになろうと、日々がむしゃらに頑張っていました。一人で100人前を担当するのが当たり前のような大箱で重ねた経験は、私の技術の基盤。数をこなさないと、理想とする質には到達できないという考えのもとにもなっています。一流と言われる方たちも皆、過去には壮絶な数を経験されていますからね」
19~24
東京でも仕事をしてみたいと希望を出し、六本木の『テロワール』に異動。
「ワインに合わせるコース料理を手がけられる現場で、良い経験になりました。料理を勧めるサービス人がいて、楽しませられる知識と経験があってこそ成り立つ世界なんだなと。名だたる料理人が一目置いていた当時の総料理長、金子(浩二)さん(現『クスクス ルージール』オーナーシェフ)に仕込んでもらえたのも財産。いずれはと考えていたフランスへ行くノウハウも教えてもらえました」
25~26
南仏の食材に興味を持ち、プロバンスのレストランへ。
2003年に退職後、渡仏。プロヴァンスにあるレストラン『ラ・ファリグール』で約2年間、修業を重ねた。
「南仏の食材に魅力を感じていたんですよね。履歴書を送ったなかで、一番いい返事をくれたのが、このお店でした。オーナーシェフと3人だったので、仕事はなんでもやらせてもらえたんですが、バカンスの時期はものすごく忙しくて。かなり鍛えられましたし、現地の人が普段食べている食文化も体験でき、いい勉強になりました」
26~29
現地での経験を経て、フランス以上にフランスを感じる、熱いレストランへ。
滞在中に知り合ったシェフたちと話すと、必ず出てくるのが「あのときのメンバーは最高だった」という思い出話だった。それに憧れて帰国後は、実際に訪れて、最もチーム全員が熱そうだと肌で感じた東京・青山の『アディング・ブルー(当時のグランドシェフは三谷青吾さん シェフは長澤宜久さん)』の門を叩く。
「海外ゲストもガンガン来るし、異言語が飛び交うし、ヨーロッパの香りが濃厚。大人の遊び場みたいなお店で、フランスにいたとき以上にフランスのエスプリ(精神・機知)や料理人魂を学べました」
26~29
飲食店のライブ感が味わえて、楽しく過ごす。
「何十品もの固定メニューが日替わりであるうえ、その日の食材をわんさかワゴンに載せ、『なんでも調理しますよ!』っていうスタイルだったんですよね。本当においしいものを食べてほしいというのが根底にあるから、スタンダードなフランス料理もジャンルレスな料理も同時に提供できるし、この人たちがフィルターを通してつくればここの料理になる。めちゃくちゃ大変でしたが、飲食店のライブ感が味わえて、すっごく楽しかったです」
29~34
ソムリエの資格を取得し、1日1組限定のレストランをオープン。
フランス料理とワインは切っても切り離せない。いずれはしっかり学びたいと考えていたため、退職後はソムリエ資格を取得。2008年には、東京・下北沢に1日1組限定の『レストラン マナ』をオープンさせた。
「たまたまいろんな話が重なって、お店をやることになったんですよね。1日1組のレストランなんて、名だたる料理人が最後にやる形態だと思っていたんですが…。お庭を見ながら食事ができる一軒家のダイニングが素敵すぎたので、この空間を楽しんでもらおうと、営業時間も決めず、料理もサービスも全部自分でやることに。目標がないと頑張れないので、1,000組を集客したら閉店すると決めて始めました」
29~34
自由に時間が使えるようになったことで、国内外の生産者を訪ねるように。
最初は予約の入らない日もあったが、徐々に評判を呼び、多くの人から愛される場所になっていく。週末には、単品やワインを提供するバーのような営業や、音楽と組み合わせたイベントなども展開。自由に時間が使えるようになったことで、国内外の生産者を訪ねるようにもなった。
29~34
生産者とお客様をつなぐ催しも数多く開催。
「旅も人も好きなので、生産者というより人に会いに行く感覚です。素敵な食材を見つけたら、お客様にも紹介したいし、喜んでもらいたいし…。新たに出会うことで、自分のなかから違うものが生まれるのも好きなんですよね。よくイベント好きって言われるんですが、そうじゃなく、好きな人と仕事がしたいんです。つくったものを食べてもらう姿を見ることがあまりないというお声から、生産者とお客様をつなぐ催しも多く開きました」
34~39
尊敬できる料理人やソムリエと力を合わせたことで、チームで働く喜びを実感。
そろそろ1,000組に到達しようかという頃。所用で大阪を訪ねた際、できたばかりの『フジマル醸造所』にたまたま立ち寄り、出会ったのが同所を営む株式会社パピーユ代表の藤丸智史さんだった。
「また東京で呑みましょうという話になり、実現したときに言われたのが『東京に進出したいから一緒に働いてくれないか』という言葉でした。心身ともに出し切った感があり、閉店したら旅をしようと考えていたんですが、しばらく一人だったのでチームでの仕事がしたくなっていたんです」
34~39
『FUJIMARU 浅草橋店』の立ち上げに力を尽くす。
「食材を使い続けなければ、つくり手さんはいつかいなくなってしまう。だけど自分一人のお店では、使える量が限られている。会社に入ることで、自分が料理をする以外の場でも提供できればと考えました。これまでに得たワインの知識も活かせるし、生産者さんと料理人をつなぎ、さらにはお客様へおいしさを届けられる。そんな橋渡し役になれそうな気がして、藤丸さんからのお誘いを受け入れる覚悟をしました」
目標を達成し『レストラン マナ』を閉店した2013年、株式会社パピーユに入社。ワインショップ&ダイナー『FUJIMARU 浅草橋店』の立ち上げに力を尽くした。
39~41
1年4ヵ月の産休を経て北九州市を拠点に仕事を継続。
「働けるスキルがあれば、どんな生活環境でも、どこで何をしていてもいい。藤丸はずっと『辞めなくてもいい会社をつくりたい』と公言していて、コロナ禍前からそういう方針だったんです。子供ができても、介護をすることになっても、生活は変わるものですが、ライフステージにおいてやむを得ないことが発生し、食の世界を離れる人がいるのはもったいない。そんな彼の考えに賛同しています」
翌年4月に復帰し、現在は福岡県北九州市で暮らしながら仕事を続けている。
41
0歳児を抱っこしながら全国をめぐる。
「復帰後は、0歳児を抱っこしながら全国にある食材や調味料の生産者のもとを訪ね、飲食店や一般のお客様にご紹介する方法を考え、実践してきました。百貨店での催事などでは、食材のセレクトからメニュー考案、調理まで私が担当。知ってファンになってもらうことが、生産者の方への一番の応援になりますからね。九州での展開もどんどん拡大中。以前と表現方法は違いますが、喜びのシェアという面では変わっていませんよ」
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“好き”を見つけて、大事にできることは、生きていくうえでとても大切。
「好きなことをやって、誰かに喜んでもらうなんて、こんな幸せなことはない」と微笑む木邨さん。迷ったときは、自分がおいしい、楽しいと思うほうを選び、その経験はすべて今につながっているという。
「喜んでもらえた笑顔を見ると、やめられないなと常に思います。“好き”を見つけて、大事にできることは、生きていくうえでとても大切。忙しくなりすぎると悩む人もいますが、そんなときに思い出してほしいのが、もともと自分は何が好きだったのかという原点です」
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好きがあふれ、「あれもこれもやりたい」というのは全然いいと思う。
「私の場合、食いしんぼうなこと、人に喜んでもらうのがうれしいこと。好きがあふれ、『あれもこれもやりたい』というのは全然いいと思うんです。それらをくっつけられるのは、自分にしかできないことかもしれませんからね。…昔は、お店をもったら子どもは産めないと思っていたんですが、『大丈夫、できる』と声を大にして言いたいです。やりたいことを諦める必要はありません。その人に魅力があれば、どんな形態でも続けられますよ」