食の世界を目指す新入生からの質問と、
卒業生のインタビュー
卒業生のインタビュー
挫折せずにやっていけるか不安です…
壁を乗り越えるために必要なことは?
タサン志麻さん
家政婦・料理人
家政婦・料理人
2018.12.15
老舗フランス料理店やビストロなどで修業を積み、結婚を機に、家政婦として仕事を開始。“予約がとれない伝説の家政婦”としてメディアから注目され、ベストセラー出版・テレビ出演等で活躍。
『これでいいのかな』という思いもありました。
だけど次第に、『料理がすごくおいしかった』とレビューを書いてくれる人が増えてきて…。
最初の就職先で3年を過ぎたとき、糸が切れたようになってしまって・・・。
フランス留学から帰国後、アルバイトをしながら4か月間じっくり食べ歩きを続け出会った四谷の老舗フランス料理店。
仕事は厳しかったが苦ではなかった。シェフの料理や考えに傾倒し、勤務時間外にも自主的に勉強。フランスの歴史や文学小説、音楽や映画なども貪欲に学んでいった。しかしその文化を知れば知るほど、家庭的な料理への憧れが高まっていく。
「3年は絶対に辞めないと決めていたんです。だけどそれを過ぎたとき、糸が切れたようになってしまって。すごく悩んだ末に、退職を願い出ました」
退職後のアルバイト中も「なにやってるんだろう」と・・・。
退職後は知り合いの紹介を受け、業務用のタレやソースを開発する食品会社でアルバイトをすることに。限られた予算内で理想の味に近づける、研究者のような仕事だった。
「フランス料理をやるつもりで学んできたのに、『何をやっているんだろう』と思っていましたが、今になるとその経験が役立っています。限られた条件下で何を大切にするべきか、勉強になりました」
その期間も、語学をはじめ、フランスについての勉強は続けていた。1年半ほど経ち、就職活動を再開。高田馬場のビストロに感銘を受ける。
自ら懸命に探し、「働きたい!」と思えるレストランと出会う。
「レストランの華やかな料理じゃなく家庭料理が好きだといったことをお話したら共感していただけ、シェフの考え方や料理の感性も好きだと感じ、実際に食べさせてもらったら、『これこれ、こういうの!』という確信があり、すぐ働かせてくださいとお願いしました」
アルバイト先で出会ったフランス人と結婚。
退職後は、フランスへ家庭料理の勉強に行こうと、お金を貯めることにした。フランス文化に触れていたいと考え、多くの在日フランス人が働く焼き鳥店へアルバイトに。そこで語学を学ぶために来日していたフランス人、ロマンさんと出会い、結婚へと至る。
家政婦になることを決意、しかし当初はジレンマを感じることも・・・。
「同級生たちが独立してお店をもっていくなか、『これでいいのかな』という思いもありました。だけど次第に、『料理がすごくおいしかった』とレビューを書いてくれる人が増えてきて…。日々食べる料理だから、和洋中なんでもつくれるように勉強しましたが、なかでも知ってほしいフランスの家庭料理を織りまぜたところ、噂が広まっていったんです」
一生懸命やっていれば必ず形になるはず。
「誰にも相談できず悩んできましたが、フランス料理に対する思いはずっと変わらず、勉強を続けてきました。そのことが今につながっています。料理が好きだと飛び込んだ世界のなかで、みんなと違ったっていい。一生懸命やっていれば必ず形になるはずなので、これからめざす人たちも周りに振り回されず、自分が好きだと思うものを追いかけ続けてほしいです」
武幸子さん
有限会社apartment 取締役 pâtisserie de bon coeur シェフパティシエール
有限会社apartment 取締役 pâtisserie de bon coeur シェフパティシエール
2018.4.27
エコール・キュリネール国立(現在の辻󠄀調理専門学校 東京)からフランス校へ。洋菓子店に就職するも3カ月で退職。その後、レストランや、渋谷のカフェなどを経て、武蔵小山の『パティスリィ ドゥ・ボン・クーフゥ』でシェフパティシエールを務める。
落ちこぼれだった学生時代、すぐに挫折した初就職…。
何度も転びながらも、独創的なケーキで魅了する人気店のシェフパティシエールに。
ただただお菓子づくりを楽しんだ専門学校時代。
「専門学校時代の成績は、全然良くなかったんですよ。先生からもよく怒られていたし、将来のこともあまり考えていなかったし…ただ、学校は大好きでした」
姉のお菓子づくりを手伝うのが好きで、幼い頃は「ケーキ屋さんになりたい」と言っていた。だけどいつしかそれも忘れてしまっていた高校2年のとき。たまたまクラスメイトが持って来た辻󠄀調グループのパンフレットを目にして、そこへの進学を決めた。
毎日騒いで、いつも先生に怒られていました(笑)
「すごくキラキラと素敵に映り、もう『ここに行きたい』と。入ってからは、毎日とにかく楽しかったです。自分と同じお菓子づくりが好きな子たちが、いろんな県から来ていて、今まで当たり前だと思っていた感覚も全然違ったりして…日本って広いんだなと。毎日騒いで、いつも先生に怒られていました(笑)」
ほとんどフランス語がわからず、先生も厳しい。毎日帰りたいと嘆いていた。
紹介ビデオを見て「かっこいい」と感じ、フランス校へ進学。事前に語学を勉強していなかったので、ほとんどフランス語がわからず、先生も厳しい。毎日帰りたいと嘆いていた。
「まず『知らない』が通用しない。1回言われたことはできて当たり前だし、同じことを訊いたら叱られるので、本当に来なければ良かったとずっと思っていました(苦笑)。だけどおかげで徹底的に見て、メモを取って、1回で覚える習慣がついていたから、『仕事を覚えるのが早い』って。社会に出てから、ようやく誉められるようになりました」
「10年後も絶対残る」という決意とは裏腹に、就職後、3カ月で退職。
卒業後は、国立近くにあった街場の洋菓子店に就職。家族経営の小さな店舗で、仕事もきつくなかったが、3カ月で辞めてしまう。原因は典型的な甘え。学生の気持ちから切り替えられなかったんだろうと振り返る。
『絶対、私は残ってやる』と思ったし、『自分は絶対に残れる』という根拠のない自信があったのに・・・。
「その後はテレアポのバイトをしていたんですが、半年ほど経った頃から焦り始めたんですよ。入学して最初の授業で、『好きなことを仕事にするのはとても素晴らしいことだけど、この世界に残って活躍しようとするなら、それなりの覚悟も必要』って担任の堀田(朗子)先生から言われたことを思い出して…。当時、私は将来のこともあまり考えていなかったんですが、『絶対、私は残ってやる』と思ったし、『自分は絶対に残れる』という根拠のない自信があったんですよ。にもかかわらず、今こんな状態じゃないかって…」
レストラン勤務を果たすも、身体を壊してしまう。
その後はさまざまな店で経験を重ねたが、西麻布のレストランに勤め始めて1年半ほど経った頃、忙しさのあまり身体を壊してしまう。
「仲間にも恵まれ、仕事自体はとても面白かったので、精神的には全然つらくなかったんですが、身体がもちませんでした。それ以降、調理場に入るのが怖くなってしまったんです」
「仲間にも恵まれ、仕事自体はとても面白かったので、精神的には全然つらくなかったんですが、身体がもちませんでした。それ以降、調理場に入るのが怖くなってしまったんです」
『めっちゃうまっ!』と感動するケーキに出会う。
体調が戻った後も、勤務時間の緩やかなカフェで接客の仕事を始めた。30歳を超え、気づけば店長に。いつまでもこのままでいいのか思っていた頃、以前同じ職場だった仲間から、求人話を持ちかけられたのが、現在、シェフパティシエールを務める武蔵小山の『パティスリィ ドゥ・ボン・クーフゥ』だった。
「実は私、ケーキをつくるのは好きでも、食べるのはそれほどでもなかったんですよ(苦笑)。だけど面接の日に買って帰ったドゥ・ボンのケーキを食べて、『めっちゃうまっ!』と感動したんです(笑)。ギュッと濃厚で、無駄なものが一切なくて、とっても好きな味。ここなら間違いないなと確信し、2011年に入社しました」
異色の有名パティシエールがつくるケーキに感動し、イズムを継承。
カフェ併設の洋菓子店。創業時からシェフを務めていた岩柳麻子さんは、独学で技術を身につけた異色の有名パティシエールから、『特別な人の特別なケーキ』というコンセプトを受け継いでいく。
まずつくってみて、そこから売るためにどうするかを考えるスタイル。
「受け継いで守っているのは、『特別な人の特別なケーキ』というコンセプト。とてもいいなと惹かれ、今もほかにはないものをつくろうとしています。原価を考えず、自分のつくりたいものを絶対につくる、麻子さんの奔放さにもかなり影響されましたね(笑)。まずつくってみて、そこから売るためにどうするかを考えるスタイルは、今も踏襲しています」(武さん)
自転車に乗りながら目にした風景から、新作のケーキをイメージ。
自転車に長く乗って通勤できるよう、わざわざ遠くに引っ越す。
「お店から25kmぐらい離れたところに(笑)。そのとき目にしたものから新作ケーキのヒントを得たり。考えを巡らせるのにもいいんですよ」
新作のアイデアは現在、すべて一人で考えている。年に2回、新作ケーキパーティを開催。春夏と秋冬、それぞれテーマを決めて5種類ずつ考え、1カ月ごとに出していく。いずれも頭のなかだけで考え、試作は1~2回。味や食感の組み合わせも想像上で構成し、あとは微調整だけ。大幅にずれることはないという。
転ばない努力より、転んでも起き上がる努力をすれば、道はつながる。
「つまずかない努力、転ばない努力をするより、つまずいても転んでも、立ち上がる努力をしたほうが、残る人間になれると思います。私がまさにそうなので(笑)。何度でも立ち上がる勇気さえあれば、なんでもできるんじゃないでしょうか」
須藤銀雅さん
アトリエAirgead(アールガッド) オーナーシェフショコラティエ
アトリエAirgead(アールガッド) オーナーシェフショコラティエ
2018.1.12
エコールキュリネール大阪あべの 辻󠄀パティスリーマスターカレッジ(現在の辻󠄀調理師専門学校 大阪)を卒業後、神戸の洋菓子店『ファクトリーシン』に就職。その後、東京・恵比寿のフレンチレストラン『ジョエル・ロブション』を経て、ベルギーチョコレートの名店『ピエール・マルコリーニ』の東京にあるアトリエに勤務。2016年2月、「BAR専用チョコレート」を手がけるアトリエ『アールガッド』を開業。
挫折をしても諦めずに模索し続ければ、独自の道がきっと開ける。
恥ずかしい思いや惨めな思いも経験しながら少しづつ工夫して積み重ね、憧れた美しいものを、今、自分でつくれている。
学費・生活費の壁は、アルバイトで乗り切る。
高校3年間はボクシングに打ち込んだ。減量が厳しく、好きなように食べられない毎日。そんな部活後の帰宅途中、路面にあったケーキ店で、外から見えるショーケースに心を奪われた。
「減量の苦しさも相まって、キラキラと輝く、宝石のような美しいものに見えたんですよね。それが部活を引退したあともずっと頭に残ってて、次に打ち込むものはこれだと思いました。好きなだけ作って好きなだけ食べたいという気持ちもありましたけどね(笑)それでパティシエになるため専門学校へ進もうとしたんですが、親から学費が高いと反対されて…。そんななか、当時、辻󠄀調グループの大阪校にだけ、住居つきでアルバイトを紹介してもらえる制度があったんですよ。それで生活費をまかないながら毎月、1万円ずつ返済していくからと許可をもらいました」
週6日のアルバイトをしながら、卒業まで1日も休むことなく通い続けた。
「丁寧な指導で練習の時間もたっぷりもらえるので、着実に技術が身につく楽しさがありました。一方、実習の時間はとにかくシビアで…。決められた時刻までに作業が終わっていなかったら、あと少しで完成でも強制終了でしたからね。すると何がだめだったのか反省し、次こそは絶対に時間通り終わらせようと工夫するようになる。多少時間がオーバーしても許されていたら甘えが出ていたでしょうし、おかげで考える力がついたと思います」
まだ将来像も描けておらず、まずは経験を積もうと打ち込んだ。
卒業後は神戸の洋菓子店『ファクトリーシン』へ。まだ将来像も描けておらず、まずは経験を積もうと打ち込んだ。
「勤務先はお店ではなく、大きな工房でしたが、個人店と変わらないようなことを一通りやらせてもらえて勉強になりました。叱るところは叱ってくれ、褒めるところは褒めてくれて、根気よく教えていただけた」
人生で一番落ち込む時期を経験。
5年以上が経ち、修業を重ねるならそろそろ次のところへと考えていたとき、人手が足りないからと辻󠄀の同級生に声をかけてもらったのが恵比寿のフレンチレストランの名店『ジョエル・ロブション』でした。でもどうしても気持ちがついていかず辞めてしまうことに…人生で一番落ち込んだ時期でもありました」
せっかく身につけた専門技術は捨てたくないという想いから再チャレンジ。
自分なりにしっかり考えて辞めたつもりではあったものの、もうこの業界に居られないのではと思い詰めた。しかし、せっかく身につけた専門技術は捨てたくない。再チャレンジして、それでも本当にだめなら諦めよう。そう考えた頃に求人を見かけたのが、ベルギーチョコレートの名店『ピエール・マルコリーニ』だった。
能力は人それぞれ。コツコツ集中してつくるのが自分には合っていた。
「チョコレートって今までガッツリやっていなかったので、ここで初心に戻ってイチからやり直せたらなと思ったんですよ。基本はベルギーからの空輸なので、日本のアトリエではチョコレートを使った生菓子を中心につくっていましたが、先輩にも教わりつつ面白さを感じるようになって。伸びやすい能力は人それぞれ。僕の場合は、コツコツ集中してつくるのが性に合っていたんですよね」
自分が成長するチャンスだと思いバー向けのチョコレートづくりに挑戦。
『ピエール・マルコリーニ』に勤め始めて約2年。神戸で働いていた頃、雰囲気の格好よさに憧れて通っていたバーのマスターに、「うちの店用に何かつくってくれないか」と持ちかけられた。自分が成長するチャンスだと思いアトリエ長に頼み込んで勤務後、自主練がてら挑戦することに。創意工夫の工程が楽しく、のめり込んだ。
これを仕事とするにはどうすればいいかを考えるようになる。
「買ってきた材料で、仕事が終わったあとに試行錯誤を重ねました。バーで出すチョコレートというと、お酒の入ったものかと思われがちですが、むしろ入っていないほうがいい。そのなかで、どうすれば合うかと考えるのが楽しかったんです。当時は特別な知識もなく、『味噌を使ったら塩キャラメルっぽくなって、ウイスキーと合いそうだ』といった感覚でつくっていたらすごく好評で。定期的に新商品をつくっていくうちに、これを仕事とするにはどうすればいいかを考えるようになりました」
とことん尖らないと生き残れないと考えた。
独立を視野に入れるようになり、一般的な飲食店の開業というよりは自分しかやらないような特殊な形の事業にしたいという思いがあった。そこで開業までに色んな事業の経営者たちの話を聴こうと休日は異業種交流会へ。さまざまな人と関わることで、少しずつ自分なりの方法が見えてきた。初期投資を抑えるためにも、あれもこれもでは無くチョコレート専門にしたほうがいい。どうせ特化するなら、とことん尖らないと生き残れないと考えた。
お客さんのことを考えられていない人は、いずれ頭打ちになる。
「ならいっそ、店舗販売はせずバーだけに卸そうと。そうすれば、つくる場所さえあればいいから立地は関係なく、家賃も安く済むし、一人で制作に集中できる。その代わり、バーテンダーにはとことん気に入られる商品にして、信用を積み重ねていこうと決めました。交流会で勉強になったのは、上手くいっている経営者の話も勿論ですが、逆に上手くいっていない経営者も観察できたこと。お客さんのことを考えられていない人は、たとえ一時期は順調だったとしても、いずれ頭打ちになる。そんな反面教師の姿を目の当たりにできたのは、大きかったですね」
取引先はほぼゼロからのスタートだった。
こうして開けたショコラティエへの道。重要なきっかけを与えてくれたマルコリーニを2015年12月いっぱいで卒業し、「BAR専用チョコレート」という独自のテーマを設定。準備期間わずか1カ月で、翌年2月1日には中野坂上に10坪ほどのアトリエを構えた。まずはこれまでに人気のあった7種類をラインアップ。しかし取引先はほぼゼロからのスタートだった。
2カ月間の営業後はSNSやクチコミで拡散。取引先が増えていった。
最初の2カ月間で、気になっていた店舗や歩いていて見つけた店舗など、20軒ほどのオーセンティック(正統的)バーへ営業。訪れた約半数のバーが、取引を始めてくれた。
「バーテンダーって、ほかが使っていないものに興味を持ってくれやすくて。試しにとってくれたものをSNSで拡散してくれたり、別のバーに紹介してくれたりして、どんどん広がっていきました。とはいえ1年目の秋頃までは赤字でしたけどね(苦笑)。途中で開店資金が底をついたときは1日1食に切り詰めましたが、右肩上がりで黒字に転じる目処が立っていたので、コンセプトを崩すこと無く勇気を持ち続けられました」
独立するとき指針にしたのは、「狭き門より入れ」という教え。
多くの人が選ぶ道は安全で味方も多くラクに思いがちだが、競争相手も多く、そのなかで生き残るのは大変。しかし人のやらないことなら、最初は批判されたり苦労をしても、軌道に乗れば独壇場にできる。
「そのためには、成長できるところで働くことが大事だと思います。だからといって会社が親切に機会を与えてくれるわけではありません。自分で工夫して、会社の役に立ちながら将来につながることを見つけていくのが大切」
新たな道はいろんな方向から探れるはず。
「飲食業の中でもとりわけ製菓は離職率が高いですが、一度や二度どこかが合わないからといって自分の選んだ職業を終わりにするんじゃなく、新たな道はいろんな方向から探れるはず。僕も一時は挫折しましたが、恥ずかしい思いや惨めな思いも経験しながら少しづつ工夫して積み重ねていったおかげで高校時代に憧れた美しいものを、今、自分でつくれている。それをただお客さんに小売するのでは無く、昔憧れていたバーテンダーという職種の人たちを巻き込んで提供することでより多くの人たちから感謝される。そこには自分にしか作れなかった理想の事業が成り立っているんです。僕もまだまだ勉強の途中ですが、これから食の業界に入る人たちも、壁にぶつかっても諦めず、独自の道を見つけてほしいです」
櫻井龍弥さん
SAKURAI オーナーシェフ
SAKURAI オーナーシェフ
2024.2.14
辻󠄀調理師専門学校を卒業後、フランス料理店・ホテル勤務を経て、カフェレストランを10年営業。依頼を受け大型レストランの総料理長に。さらに新規事業として、クレープリーを展開。しかしコロナ禍を受けて全店が閉業。再び独立開業を決意し、2021年2月、兵庫県丹波篠山市にガレット専門店『SAKURAI』をオープン。2023年9月には、フランスで開催された、第28回全国ガレットコンクールで、部門準優勝、総合3位に輝く。
同窓生だった蕎麦職人に協力を仰ぐ。
日本のそば粉を生かしたガレットを追求。
さほど深く考えずに進学したんですが、いざ授業を受け始めると…
「真面目な学生じゃなかったので、お恥ずかしいんですけどね(苦笑)。さほど深く考えずに進学したんですが、いざ授業を受け始めると、西洋料理の先生のかっこよさに憧れて…。当時ブームになったテレビ番組『料理の鉄人』に出演されていた石鍋裕シェフが特別講師に来てくださったときも、圧倒的な存在感があって一言一言が重く、めちゃくちゃかっこよかったです。西洋料理の美しさにも惹かれて、その道を選びました」
卒業間近に阪神・淡路大震災が発生し、就労困難に。
卒業間際の1995年1月、阪神・淡路大震災が発生。就職を決めたのは兵庫県西宮市のフランス料理店だったが、通勤も不可能になるなどさまざまな問題に直面し、半年ほどで挫折を経験。大手ホテルでのアルバイトを経て、ホテルモントレ神戸の門を叩く。
修業は厳しかったが、同期の仲間と踏ん張れた。
「震災後だったこともあり、アルバイトからの就職もなかなか見つからなかったんですが、モントレに直接交渉をしたら受け入れてもらえて。小規模なホテルだったので個人レストランに近く、いろんな経験を積めましたし、多彩な食材も入ってきてすごく魅力的でした」
レストラン業務も宴会業務も手がけ、5年間で各部門を一通り経験。料理の基礎は、当時の料理長から教え込まれたと振り返る。
「修業はもちろん厳しかったんですが、ここで逃げたらどこへ行ってもまた逃げるだろうなと腹をくくって。残った同期ともいい関係だったので、一緒に踏ん張れました」
思い描く通りに仕事ができるようになると、料理が面白くてたまらなくなった。
「3年目のあるとき、ふと視野が変わる瞬間があったんです。階段の上から幅広く見ているような…。それまでと違い、思い描く通りに仕事ができるようになり、料理が面白くてたまらなくなったんですよ。今まで怒られていたことも言われなくなり、仕事がうまく回る。そしたら怖いシェフが僕を横につけてくれ、全部任されるようになって、『これ、めちゃくちゃ面白いぞ!』と(笑)。そこからは、料理がひたすら楽しかったです」た。
独立開業し、なんでも自由にトライでき、喜んでもらえるうれしさを実感。
やがて料理長が辞めるタイミングで退職。まだ20代半ばだったが、自分の料理をつくってみたいと思い、2001年、神戸元町に小さなカフェレストラン『ヌードダイナー』を開業する。
「当時流行っていたカフェダイニングの雰囲気で、人気はありましたよ。カジュアル路線のビストロ料理をメインに、パンもつくっていましたし…。自分の店だから、いろんなことに自由にトライできて楽しかったです。お客様の反応もダイレクトに受け取れますし、喜んでもらえるうれしさも、やはりそれまでとは違いました」
新たな経験を積めることへの期待もあり、店を畳むことを決意。
そして10年が経とうとする頃、料理長を探していると依頼を受け、新たな経験を積めることへの期待もあり、店を畳むことを決意。神戸元町で大型レストラン『カルタ』の総料理長を任された。
「オーナーさんが理解ある方で、好きにやらせてもらえたんですよ。宴会業務やブライダル業務も携わりましたけど、ホテルの経験も活かせて、すごく面白かったです」
提案に賛同してもらえたが、独学で挑戦したので最初は大変だった
経営は順調だった。オーナーに新店舗を展開したいからとアイデアを求められたとき、真っ先に思い浮かんだのがガレットだった。
「以前、フランスへ遊びに行ったときに食べて、めちゃくちゃおいしいなと衝撃を受けたんですよ。見た目に反してお腹いっぱいになるから、食事にもなる。素朴さの中に奥深さを感じていたことがずっと頭の片隅にあり、提案したところ賛同してもらえて。とはいえ独学で挑戦したので最初は大変でした。本に書かれた通り真似しても、うまくいくわけもなく(苦笑)。レストランの仕事をやりつつ、生地のレシピについて卵を入れてみたり、和風の出汁でといてみたりと、かなり試行錯誤しましたが、やっぱりシンプルなのがいちばんでしたね」
新事業で展開させたガレット専門店が大ヒット。
こうして2016年、神戸旧居留地にクレープリー(ガレット・クレープの専門店)『トロワエピス』をオープン。瞬く間に人気店となる。
「開業まで時間があったので、なんとか形にできました。だけど半年ほどでやっぱり本場へ行きたい気持ちが高まり、フランスへ。現地で専門店を回ってヒントをもらい改良していって…」
しかしコロナ禍で閉店へ。
「人気が出たおかげで神戸ハーバーランドの商業施設からお誘いを受け、2019年8月には姉妹店をオープンさせたんですが…なんせタイミングが悪かったですね」
2020年に入り、コロナ禍に見舞われる。母体だった企業は、旅行業とブライダル業が主軸。年間予約がすべてキャンセルとなり、全店舗、閉店を余儀なくされた。
飲食業をするなら、どんな形なら可能性があるか。諦めずに模索し続けた。
「もう40代半ばでしたし家族もいる。失業保険のある間に先行きを決めなければと、焦りも迷いもありました。飲食業をするなら、どんな形なら可能性があるか。諦めずに模索し続け、これでダメなら諦めようと独立開業を決意したんです」
都会での密な営業は難しい。かといってアクセスが悪ければ集客できない。都心部から車で来やすい場所を念頭に、わざわざ足を運んでもらえる価値のある、ガレット専門店をめざすことにした。
都心部から1時間圏内の丹波篠山で、わざわざ足を運んでもらえる自店を開業。
「僕が最も魅力を感じる窯元の隣が空いていて。大阪、神戸、京都、姫路あたりからも1時間圏内だし、農産物やジビエなどの食材も豊富。食に携わるにはめちゃくちゃいい立地だと感じました」
認知されるまでは厳しかったが、Instagramと口コミで徐々に来客が増えていった。地域の農家や猟師、陶芸家の方々とも懇意になり、この地ならではのガレットも提供できる幸せ。しかしまだ、迷いがあったという。
独学でやってきたものが、どこまで通用するのかを試してみたい。
これまで独学でやってきたものが、どこまで通用するのかを試してみたい気持ちもあり、本場フランスでのガレットコンクールへの出場を決意。出場するにあたり、協力を仰いだ一人が、大阪の手打ち蕎麦店『甚九郎』の店主でもある、森本貴之さんだった。
「彼とは、うちの近くの窯元さんを介して知り合いました。話しているうちに、専門学校の同窓生であることもわかって意気投合。そば粉の相談に乗ってもらっただけでなく、彼の仲介のおかげで、以前、ガレットコンクールに出場された県内のお店ともつながれました」
フランス人の好みに合わせつつオリジナリティを出し、現地の職人たちに勝利。
コンテストは、ガレットカー(屋台)部門とクレープリー部門で開催。櫻井さんの出場するクレープリー部門では、15分間で焼いたプレーンガレットのうち、6枚を提出。その見た目・均一性・厚さ・焼き加減・香り・味が審査される。生地だけを競うからこそ、素材と技術が重要だ。結果、クレープリー部門準優勝、総合3位という日本人初の快挙を成し遂げた。
つながりのありがたさを改めて感じる。
「焼いたときには自分のベストが出せたと感じましたが、まさかこんな成績が取れるとは思っていなかったので、最初は何が起きたのか全然わりませんでした。森本さんがいなかったら、受賞できていないのは間違いありません。つながりのありがたさを改めて感じました。もちろん受けた恩は、僕も面白いことで返そうと思っています」
料理人同士のつながりは刺激的。お互いが認め合える関係は本当に面白い。
料理人というと、厨房にこもるイメージが強い。しかし人と関わりながら可能性を広げられるのが、何物にも代えがたい面白みにつながっていると櫻井さんは言う。
「フランスのクレープリーのオーナーと仲良くなり、滞在中、彼のお店で1日だけ働かせてもらったんですよ。ゆくゆくはフランスで屋台を開くことにもなれば面白いなって。料理人同士のつながりっていいですよ。すごく刺激になりますし、お互いが認め合える関係は本当に面白いです」
夢や目標を実現するには、やはり人の力が必要だ。
一人でできることは限られている。サポートしてくれる仲間がいてこそ、次のステップにもつながっていくと語ってくれた。
「それなりにやってきた人って、苦労した点も似ているから共感できるし、そこを乗り越えてきた人たちってわかるから、年上年下関係なくリスペクトできるし、学べることも多いんです。どんな世界でも楽しいことがあるとは思いますけど、飲食業って独特のつながりがあるじゃないですか。お客様とも同業者ともつながりが深いですし、夢のある世界です。もちろん大変なこともいっぱいありますけど、楽しむことが大事。飲食業は本当に楽しいですよ」
佐伯貴大さん
焼鳥さえき 店主
焼鳥さえき 店主
2022.9.9
辻󠄀調理師専門学校からフランス校へ。卒業後、東京のフランス料理店で働くも挫折し帰郷。地元で働くうちに独立心が再燃し再び上京。高級焼き鳥店での修業を経てニューヨーク店の立ち上げに参加。しかし、コロナ禍により帰国。地元で独立開業準備を進め、2021年3月、島根県松江市に『焼鳥さえき』をオープン。
地元島根で、焼鳥の文化を浸透させたい。
フランス料理を学び、挫折を経験しつつも見つけた自ら極めたい道。
基礎体系がきちんとできているから、やればやるほど深められて楽しかった。
専門学校への進学時、漠然とめざしていたのはイタリア料理だった。しかし授業を受ければ受けるほど、フランス料理に魅了されていった。
和洋中を学ぶ1年間の課程を終え、卒業後は辻󠄀調グループのフランス校に留学。学び進めるうちに、フランスへの想いが募っていった。
和洋中を学ぶ1年間の課程を終え、卒業後は辻󠄀調グループのフランス校に留学。学び進めるうちに、フランスへの想いが募っていった。
「自分に自信がなかったので、裏付けになる根拠がほしかったんですよね」
「担任の先生にも『気持ちがあるなら行ったほうがいい。絶対に後悔しないから』と強く勧められて決断。1日24時間、料理と向き合う貴重な毎日でした。ただ、西洋料理を専門に学んできた学生と自分との差に愕然として…。途中で一度は心が折れてしまったんですが、先生や友だちに励まされ、『やれることを着実にやっていこう』と踏ん張りました」
フランス人の仕事の早さ、押さえるべきところは押さえる感覚など勉強になった。
「フランス留学後半のスタージュ(実地研修)先は、スターシェフがいて、ホテルのおかげで街が潤っているようなところで…忙しかったんですが、労働時間は厳守されるなど、環境は整っていました。その分、みんなの集中力がすごい。フランス人の仕事の早さ、押さえるべきところは押さえる感覚など勉強になりました。最初は洗い物の担当だったんですが、先生方から『自己主張しろ』というアドバイスをもらっていたので、早く終わらせ『次の仕事を』とアピール。結果、両店のいろんなポジションを回らせてもらえ、格段に成長できたと思います」
挫折を味わい、諦めかけた道。
帰国後は、東京へ。最先端の環境で働き、刺激を受けたいという想いからの上京だった。
「30歳ぐらいで自分のお店を開きたいと考えていたので、早くに持ち場を回れそうな街場のレストランを志望。憧れの料理人がプロデュースしていたフレンチレストランに入ったんですが、まわりのレベルが高い分、自分のできなさ具合が突き刺さり…。初めての東京、初めての独り暮らしという環境の変化でメンタル的にも弱ってしまい、ほどなく地元に戻ってしまったんです」
だけど一番ワクワクできるのが食の世界だった。
フランス校に続く二度目の挫折。料理は向いていないんじゃとまで思い詰めた。しかし仕事はしなければならない。
「居酒屋、ラーメン店、和食店、カフェ…、3~4年はアルバイトを続けました。料理から離れなかったのは、結局、ほかに心動かされる仕事がなかったから。苦しいながらも、一番ワクワクできるのが食の世界だったんですよね」
転機になったのは、地元松江の洋食店に勤め始めたこと。
出来合いのものは使わず、すべて手づくりで提供するシェフに出会い、料理への想いが再燃した。
「学生時代に学んだことが最も活かされるジャンルでもありましたし、その丁寧な仕事ぶりに刺激を受けました。料理の手順や組み立て方も勉強になり、『地元で自分の店をもつ』という夢と、もう一度真剣に向き合おうと決めたんです」
焼鳥に対する塩の加減やアプローチがフランス料理そのものだった。
広島、大阪、東京で食べ歩きをし、最も心に響いたのが、東京の焼鳥店だった。
「これまで焼鳥といえば、大衆的なものしか知らなかったので衝撃でした。あるお店では、焼鳥に対する塩の加減やアプローチがフランス料理そのものだったんです。もともとフランス料理をされていた方がつくられていて、転換するとこうなるのかと感動しました」
探究心がわき、シンプルに一つのことを突き詰められるのも、性に合っていた。
松江の洋食店での3年弱の勤務を経て上京。転職したのは、首都圏で高級焼鳥店を展開していた企業だった。
「組織として確立されている会社だったので、一つひとつ体系立ててイチから教えてもらえました。ソムリエからペアリングの基礎知識も教えていただけましたし。新店舗の立ち上げにも回ったので、焼きも覚えたんですが、想像している以上に難しい。最初は全くうまくできず、焼き手によってこんなにも仕上がりが違うはなぜだろうという探究心がわいてきて…。シンプルに一つのことを突き詰められるのも、性に合っていたんだと思います」
メニューはお任せのみで、シンプルにして究極。
1年半ほどの経験を経て、勉強として食べに行った店で衝撃を受ける。その店の大将の修行先で、2011年のミシュラン1つ星獲得以降、現在まで星を維持し続けている名店へ転職した。メニューはお任せのみで、シンプルにして究極。
「こんなにも炭の香りが薫るんだと驚きました。焼鳥に対する姿勢が徹底していて、同じ焼鳥でもここまで違ってくるんだなと。分店で、掃除や片づけなどの追い回しに始まり、レバーペーストやよだれ鶏の一品ものをやって。一通りできるようになると、仕込みや串打ちを経験。本店にも回らせてもらい、火や炭の使い方など、一つひとつ修業していきました」
海外に対して構えなくなったのは、フランス校への留学経験があったからこそ。
2019年1月、海外初出店の立ち上げメンバーに抜擢。二番手としてニューヨーク行きを打診される。
「こんなチャンスは二度とないだろと即決。あまりの決断の早さに、親方にはビックリされましたよ(笑)。海外に対して構えなくなったのは、フランス校への留学経験があったからこそ。行けばなんとかなる、話せなくてもコミュニケーションはとれるというのが、実体験としてあった一方で、深いコミュニケーションには言葉の壁が大きいこともわかっていましたので、できるだけ英語を勉強するようにしました」
外国人に初めて教える立場になる。
焼きの勉強を進め、2019年末に渡米。道具をそろえ、鶏の仕入先を見つけるところから準備をしていった。
「外国人に初めて教える立場になりましたが、言われたからここまでやる』という反応で、全部言わないと動いてくれない。アメリカ人をはじめ、現地スタッフと日本人との感覚の違いに戸惑いました。だけどなんとかオープンにこぎつけると、現地の日本人からもご好評をいただき、とてもうれしかったです」
新型コロナウイルス感染症の拡大。帰国を余儀なくされた。
「会社からは、再開できた際にはまた行ってほしいと言ってもらえたんですが、元々、最終的には地元で独立開業するつもりでしたので、非常に迷いましたが、会社とお話をさせていただき、予定より数年早かったですが、地元で開業準備を進めていきました」
「鹿野地鶏」との出会い。
実家へ戻り、出店場所とともに食材も探し始める。せっかく松江で出店するなら山陰の地鶏を使いたいと、選んだのが鳥取県鹿野町で育てられている「鹿野地鶏」だった。
「松江の洋食店での勤務時代に知り合ったフランス料理の先輩から教えてもらい、見に行ったんですが、肉質も脂の載りも素晴らしくて…。当初は有名な銘柄鶏でもいいかなと思っていましたが、比べると雲泥の差。肥育日数も倍以上かかっていて、価格も段違いでしたが、妥協なく選びました。なるべく地のものを使いたかったので、野菜もできるだけ県内産に。県内外の方に、その良さを知ってほしいなと考えました」
クラウドファンディングや「焼鳥会」が、初めてご来店いただくきっかけにも。
オープン時に地元のお世話になった方向けのイベントを開催する資金を集めるため、クラウドファンディングも展開。一方、知人のお店や公園など、さまざまな場所で「焼鳥会」をネットワークを広げていく。こうして2021年3月、『焼鳥 さえき』をオープンさせることができた。
スタート直後から予約でいっぱいに。
「静かな雰囲気のお店にしたかったので、飲み屋街ではなく、少し離れたところを選んだんです。イベント開催も初めてご来店いただくきっかけにもなりました。焼鳥会で知り合った方々も足を運んでくださいましたし。コロナ禍対策の『Go To Eatキャンペーン』も手伝って、スタート直後から予約でいっぱいになり、自然と“予約の取れない店”というイメージも持っていただけるようになりました」
食文化が豊かになればうれしい。
「焼鳥=居酒屋というイメージで来られると、価格も雰囲気も全く違うので、ギャップで戸惑われると思います。東京だとある程度、こういった文化が熟成されていますが、島根県にはまだ浸透していないので、ここから文化をつくっていきたい。焼鳥はもっと評価されるべきものだという想いが強くあります。修業先で教えてもらったものを地元にも浸透させ、選択肢としても知っていただき、食文化が豊かになればうれしいです」
自分が身につけたものを、地元島根でも受け継ぎ、焼鳥の文化を浸透させたい。
自分が身につけたものを、地元島根でも受け継いでいきたい。そのためにも、焼鳥の道を志す人と一緒に働きたいと展望を語る佐伯さん。
「辿り着くまでの心得は伝えていけると思うので、どっぷり入ってくれる人と出会いたいですね。やはり基本を守り、まず自分なりの型を築くことが大切。自分の場合、いろいろ試しつつも、やっぱり基本が一番いいと実感しているところです。どんな道をめざすにしても、その時々で、そのときにしかできないことを一生懸命、やるしかない。チャンスだと思ったときは、なりふり構わず飛び込むのが正解だと、僕は思います」
上村克郎さん
株式会社 名代秘伝の味 たこ一 代表取締役
株式会社 名代秘伝の味 たこ一 代表取締役
2020.10.10
エコール 辻󠄀 大阪(現在の辻󠄀調理師専門学校)から、辻󠄀調グループ フランス校へ。卒業後、東京の洋食店に就職するも挫折を味わうが、宅配業者でのアルバイトで立ち直り、パン店、フランス料理店、リクルート社の営業職を経験。2008年11月に帰阪し、両親が営むたこ焼き店を継承。店舗数を増やし、フランチャイズも含めた9店舗(取材時)を有する企業の代表を務める。
フランス料理を学び、就職するも挫折を経験。
再起を果たした先で経営の大切さに気づき、知識と経験を重ね、家業のたこ焼き店を拡大。
高校時代、周りと同じく大学進学するのが決まっているかのように思っていた。
「初めて食べたウズラ肉の料理が衝撃的においしかったんですよね。いつしかフランス料理に憧れを抱くようになり、料理本の写真を眺めては夢をふくらませていました。だけど子どもがプロ野球選手になりたがるのと同じで、叶わない夢だと勝手に思い込んでいたんです」
高校に入ると、周りと同じように大学へ進学するのが決まったコースかのように思っていた。しかし2年次に見かけた進学情報誌で、調理の専門学校のページに目を奪われる。
無理だと決めつけていた料理の道に、進んだっていいんだと気づいた。
「とはいえ周りは大学へ進学する友人ばかり。勉強したくてもできない世代だった親父からは、『どんなに苦労しても大学には行かせてやる』と期待され続けていて…。伝えづらかったんですが、3歳違いの兄から『やりたいことが見つからない大学生の友だちも多い。今やりたいことがあるのは幸せなことやし、絶対にやるべきや』と背中を押してもらえました」
海外に行きたい思いも昔からあった。
各校の資料を取り寄せ、なかでも惹かれたのがフランス校を有する辻󠄀調グループのエコール 辻󠄀 大阪だった。
「戦前生まれでアメリカの文化に強く影響を受けていた親父から、『若いうちに外国へは行っておけ』と言われていて、海外に行きたい思いも昔からあったんですよ。最終的には料理人になりたいという熱意を認めてくれたんですが、フランス留学に賛成してくれたことも大きかったです」
最前列の真ん中で授業を受けた。
専門学校へ入学してからは、一言も聞き漏らさないよう最前列の真ん中で授業を受けた。放課後は学校に紹介してもらった喫茶店で働き、土日は高校時代から務めてきた洋食店でのアルバイトを継続。
「フランス校へ行くまでに留学資金を十分に貯めようと必死で働きました。最前列に座っていたのは意欲もありますが、眠らないためが大きい(苦笑)。もともと理屈っぽい性格なので、おいしくなる理由を説明してくれた授業は、面白かったです。求められるものの基準が厳しく、どこでも通用するような最大公約数を教えてもらえたのも良かったと思います」
恩師から受けた「ええ店って何や」という問いが、生涯のテーマに。
知識や理論、技術と並行して、料理人や社会人として大切なものも学べた。とりわけ担任だった榊正明先生からは、その後の人生に大きく影響する教えを受けたと振り返る。
「学校とは違い、現場に行ったら給料をもらいながら教えてもらうことになる。当然ながら緊張感と謙虚さをもって臨まないといけません。榊先生はそういう部分にも厳しく、つい言葉使いが悪くなると、楽しい雰囲気のときでもすぐに指摘してくれました。実習の試食で感想を訊かれ、『おいしいです』と答えても怒られるんです。どうおいしいのか、なぜおいしいのかが大事だと。食べ歩き先を探すのに、『ええ店を教えてください』と訊ねたときも、『ええ店って何や』と詰め寄られました。『ええ店』の定義は、誰のどんな視点かによっても変わりますからね。この問いは、自分にとって生涯のテーマにもなっています」
濃密なフランス校での生活。
1年間の課程を終えて留学したフランス校での生活は濃密で、現地の先生方の熱量が半端なく、準備に準備を重ねて実習に臨む。そのかいあって半年間での成長は飛躍的なものだった。
「授業ではまったく気が抜けない。人生で一番、頑張っていた時期かもしれません。週末は食べ歩きに出かけましたが、必死に貯めたお金で学びに行くんだから、『おいしかった』で終わらせるわけにはいかない。一生忘れない経験にしなければと、写真を撮って分析し尽くしました」
実地研修では、ブルゴーニュ地方の三つ星レストラン『ラムロワーズ』へ。
「和気あいあいとしながらも、スタッフたちは皆仕事が早く、オンとオフの切り替えが明確。見習うべきだと感じました。ある日、朝早くからオマール海老を茹でていたら、たまたまラムロワーズシェフが来て、『こんな時間から何をやっているんだ。押しつけられているのか』と質問攻めに(笑)。『初めて任されたのがうれしかったから、責任をもってやりたいだけだ』と伝えたところ、名前を訊いてくれたんです」
真面目に一生懸命やったら評価してもらえるのは、フランスも同じ。
「それまでの3カ月間はジャポネ(日本人)でくくられていたのに、そこから休みの日にはドライブへ連れて行ってもらえるまでになり感激しました。できない人間はすぐクビになる厳しい職場でしたが、真面目に一生懸命やったら評価してもらえるのは、フランスも同じなんだなと」
日本にある大衆的な飲食店のクオリティの高さも思い知った。
フランスではいくつものレストランに圧倒され、世界の広さを実感した。しかし同時に、日本にある大衆的な飲食店のクオリティの高さも思い知った。
「フランスとは違い、日本には安くておいしいものが豊富にある。向こうで過ごし、日本の洋食って面白いなと感じたので、帰国後は食べ歩きで最もおいしいと感じた洋食店に就職を決めました」
社会に出た途端、全くついていけず、ドロップアウトしてしまった。
当時、東京・京橋にあった店舗での仕事は楽しかった。しかし約1カ月後、オープン準備を進めていた汐留の店舗へ移ると、歯車が狂ってしまった。
「まだまだ自分なんて通用しないことや、怖い先輩がいて怒られることなど、全部想定して入ったつもりだったし、すぐに辞めるようなことだけは、しないでおこうと決めていたのに…。自分でも信じられないぐらいうまくいかず、気持ちばかり空回りして、最後のほうは何をやっても失敗ばかり。学生時代は愛情に満たされていたことにも初めて気づきました」
宅配業者のアルバイトで立ち直る。
就職からわずか2カ月で退職。しばらくは何もできずに過ごしたが、貯金が底をつき、宅配業者のアルバイトへ。
「荷物をラインに流す単純作業でしたが、もともと頑張るタイプなので、社員さんに褒められたんですよね。社会人になって初めて認められたことが物凄く励みになりました。扱う荷物の中にパンがあって、とてもいい香りがしてたんです。とても魅力的に感じ、やっぱり自分は食の仕事に関わりたいんだと再認識して、そのパン屋さんを尋ねました」
ベーカリーの製造責任者を経て、フランス料理店のオープニングに参加。
仕事が落ち着き始めた頃、研修先の『ラムロワーズ』で部門シェフを務めていた名越和幸シェフから、茨城県で独立するから一緒にやらないかと声がかかり、『コワン ドゥ フルノー』のオープニングスタッフとして参加することになる。
料理の腕以外にも、お店を経営していく上で重要な何かを学ばなくては…。
「名越シェフは、フランスや日本の名だたるレストランで副料理長にもなっていた凄腕の料理人。料理は本当に素晴らしかったんです。ただ、開業したのは、知らなければ行けないような街外れ。オープンのチラシもまかずにいたら、最初は来客数が少なくて…。今でこそ大人気店ですが、当時はそれがもどかしく、かといって進言できるほどの知識もない。料理の腕以外にも、お店を経営していく上で重要な何かを学ばなくては…という気持ちになりビジネス書を読み漁るようになったんです」
兄から意外な誘いを受け、ホットペッパーグルメの営業職に。
いざビジネス書を読み始めると、初めて知ることばかりで新鮮だった。夢中で知識を吸収し、新たなステップを模索したい旨を名越シェフにも伝えようと考えいたそんな頃、リクルート社に勤め始めた兄から意外な誘いを受ける。
食ビジネスを別の角度で見つめてみたい。
「現状を話したところ、自分と同じ3年限定の契約社員をやってみないかと。ホットペッパーグルメ(飲食店のクーポンマガジン)の営業なら、店側の気持ちもわかっていいんじゃないかと言われたんです。名越シェフのことは今も大好きですし、シェフの背中を見られるということは、かけがえのない経験になるのは、充分に理解していたのですが、食ビジネスを別の角度で見つめてみたい気持ちも強くなり、転職を決めました」
自分たちで考えた戦略やメニューが集客につながる達成感を覚えた。
3年間でビジネスの基本を身につけ、やりたい夢を実現させようというCV(キャリアビュー)職。せっかく新たなチャレンジをするならと馴染みのないエリアを志望し、岐阜編集部の配属となった。
「運良く出だしは好調で…。これまで蓄えた知識を実践できる機会も得られ、めちゃくちゃ楽しかったです。うまくいかないときはみんなで話し合うんですが、そのチームワークも面白くて。集客に向けた戦略やメニューなども自分たちで考え、それで顧客の売上げがあがると、今までにない達成感を覚えました」
家業のたこ焼き店がピンチに。
しかし1年半ほど経った頃、母親のがんが再発。上村さんが高校3年次に両親で始めたたこ焼き店『たこ一』を閉めるかどうか、話し合いの場がもたれた。
「『あんたがやってくれたら一番ええんやけどな』と言われたんですが、さすがにしばらくは悩みました」
父親が骨折による失業を機に始めたのがたこ焼き店だった。当初はトラックを店舗代わりに夕方から明け方まで働き、厳しい経営が続いたが、やがて軌道に乗り、店舗を構えるようになった。
まず目標に置いた年商は1億円。
こうして2008年11月、堺市へと戻り、店舗でノウハウを学ぶところから始めた。まず目標に置いた年商は1億円。
「目標の設定に親父はすごく喜んでくれたんですが、いざ始めると最初はうまくいかなくて…。いきなり数字がどうこう言われるわけですからね。ひどい喧嘩になったこともありました。だけど年明けには、すべてを任せると言ってくれて。そもそも0から1にしたトラックでの1年間があったからこそ今があるわけですから、改めて頭が下がりました」
この店に来たら自分は大事にされると思ってもらうことが経営理念に。
人員を増やし、営業時間を延ばして徐々に売上げをあげ、2年半ほど経った頃、隣接する和泉市に2店舗目を出店。しかしスタートは厳しいものだった。
「そもそも親父と話すのを楽しみ来るお客様も多かったですからね。大阪人にとってのたこ焼きは、ただのファストフードじゃない。お客様との関係性も重要なんだと痛感しました。この店に来たら自分は大事にされる。お客様にそう思ってもらうことが大切だと考え、それが今の経営理念になっています」
「歩いていたらいきなり『先生!』って声がして」
細やかな接客も評判を呼び、売上げを伸ばすと、2012年、岸和田市の春木に3店舗目を出店。そこで専門学校時代の恩師、榊先生と再会を果たす。「歩いていたらいきなり『先生!』って声がして」と榊先生。
「家がすぐ近所なんですよ。それから買いに行くようになったんですが、彼の店は接客が徹底していて。アルバイトのスタッフさんも、わざわざカウンターから出てきて商品を渡してくれるんです。そんなたこ焼き屋さんてないじゃないですか。あれには感心しました」(榊先生)
それに対し、「洋服屋さんはそれをやるでしょ」と上村さん。
お客様はお金を払って、感情を買われているんじゃないかって。
「効率化も重要ですが、お客様は自分が効率的に回されていると感じたら嫌じゃないですか。自分たちがやれることでお客様が喜ばれるなら、やるべきだと。極論で言えば、たこ焼きではなく人の心を扱う仕事だと思うんです。お客様はお金を払って、感情を買われているんじゃないかって」(上村さん)
仕事を楽しみ、熱狂できれば、ともに成長していける。
「自分たちの考えや力が成果につながる喜びを味わってほしい。仕事を楽しみ、熱狂できれば、ともに成長していけますからね。料理に必要な要素はもちろん、『なぜか』『何か』と考えるクセを植えつけてくれた母校に感謝しています。…偏差値の高さは、選択肢の幅広さにつながるはずなのに、それに囚われて自分のなりたいものにフタするのはもったいない。当たり前とされるレール以外の存在に気づけて、僕はハッピーだったし、大人を説得できるぐらいの熱量があれば、道は開けると思いますよ」
辻󠄀調で学んだことで今につながっていることは何ですか?
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