辻調理師専門学校: これがフランス料理だった!・1920年代のパリ
ある雨の日、カフェの奥でひとりの男が夢中で何か書き物をしている。そこへ、大きなつばの広い帽子を被った美しい婦人がマントを濡らしながら入ってきて、入り口に近い席に腰掛け、コーヒーを飲みながら誰かを待っている素振りで外を見ている。窓ガラスには雨の滴がリズミカルに流れていく。男はその婦人のあまりの美しさに筆を止め、ぼんやりと後ろ姿を眺めながら心の中でつぶやく。「そこの美しいひとよ、たとえ誰を待っていようとも今は私のものだ。たとえ2度と逢うことがなくても今は私のものだ…。そしてPARISも私のものだ」(男の名はアーネスト・ヘミングウェイ。1920年代頃のパリのとあるカフェでのこと)このような話を以前にどこかで読んで、この時代のパリはどんな風だったのかと、常々興味を持っていました。私が生まれる30年も前のパリ…。「ヨーロッパでは世紀末や1920年代にかけて、大きな時代変換があった。現代都市のライフ・スタイルのほとんどは、ここで成立している。映画、ラジオなどのメディア、自動車、飛行機などの乗物、電気、水道による快適な近代生活、モダン・アートなどにこの時代変換はあらわれる。」『ヨーロッパの誘惑』より)おりしもアメリカでは禁酒法が敷かれ、世界では第一次世界大戦の被害がなかったアメリカのドルが力を増していた頃。芸術家や音楽家、そのほか多くのアメリカ人観光客がパリに憧れ、パリの街は賑わいを増した。もちろん、ヘミングウェイもそのひとり。「1921年12月、新妻のハドリーを伴ってパリに到着したとき、ヘミングウェイはまだ一冊の本も出していない22歳の若者だった。が、それから約6年後の1928年3月、祖国アメリカに向かってパリを離れたとき、彼はすでに長編を2冊、短編集を3冊も出したアメリカ文学の輝ける新星に変身していた。」(『ヘミングウェイと歩くパリ』より)パリでは、たとえ無名であっても画家や文学者はそれなりに認められていたと聞いている。そして時代はアール・ヌーボーを経てアール・デコ。正にベルエポック!多くの文化が花開いたこの時代。日本でも大正ロマンの時代である。