■20世紀最後の世界最優秀ソムリエ 昨年の9月末から10月にかけて、カナダのモントリオールで行われた第10回世界最優秀ソムリエコンクール。20世紀最後の栄冠を勝ち取ったのはフランス代表のオリヴィエ・プシエ氏だった。彼は、レストランやショップ、料理学校と多角的に事業を展開している『ルノートル LENOTRE』社のシェフ・ソムリエだ。1995年の日本大会、1998年のウィーン大会と、惜しくも2度の敗北を味わった彼は、その後もひたすら努力を続け、ついにその偉業を果たした。振り返れば、第4回大会から第7回大会まで、かつてはフランスの一人舞台だったこの大会だが、1995年に東京で田崎真也氏が、1998年にはウィーンでドイツのマルクス・デル・モネゴ氏がそれぞれ優勝を飾り、フランスは2大会連続でタイトルを逃していた。彼の優勝で、フランスのソムリエ界もようやく胸を撫で下ろしたといったところだろうか。下記は、過去の優勝者と開催地。 2000年 モントリオール大会(カナダ) 1998年 ウィーン大会(オーストリア) 1995年 東京大会(日本) 1992年 ブラジル・リオ・デ・ジャネイロ大会(ブラジル) 1989年 パリ大会(フランス) 1986年 ヴェネツィア大会(イタリア) 1983年 ブリュッセル大会(ベルギー) 1978年 リスボン大会(ポルトガル) 1971年 ミラノ大会(イタリア) 1969年 ブリュッセル大会(ベルギー) ●オリヴィエ・プシエにより、フランスがついにタイトル奪回! 「DINGAC」 や「 POSTUB 」といったワインはクロアチアのどの品種からつくられるのか、またその色は?1952年ものの「CHATEAU D'YQUEM」の現在のおよその価格は?「CACHACA」「COCUY」このスピリッツの主成分とその産出国は・・・? 1時間半のうちに、このレベルの質問が65問。我らが新世界チャンピオンは、これら全ての質問に何の問題もなく答えることができる。が、これはオリヴィエ・プシエの世界一の実力の証明のひとつに過ぎない。言うまでもなく、驚異的な記憶力と、どんな質問にも答えられるだけの勉強量がその根底にはある。モントリオールで世界一の洗礼を受けて以来、 37歳のオリヴィエ・プシエはメディアに引っ張りだこだ。あちこちから寄せられる取材のオファーは国内だけに留まらず、国外のメディアにまで及んでいる。次々とインタビューは繰り返され、また寄せられる依頼の内容も様々だ。彼自身、この栄誉がもたらした絶え間ないプレッシャーに驚きを隠せないようだ。 「私は1995年に世界2位のタイトルを獲得しました。そして今年は1位に。この違いには目を見張るものがあります。私たちは本当に勝者崇拝主義の社会に身を置いているのだと実感しています。1995年のとき、私は4・5回のインタビューを受けただけでしたが、今回は毎日のように取材の依頼が来ています。この関心度の違いはロジックではありません。世界大会優勝者と2位、もしくは3位の人の知識はほとんど同じレベルなのですから。」 「オリヴィエは世界中のワインの膨大な知識を身につけている。彼は他にも、アルコールや葉巻、また食全般に関心がある。彼は決して得意になったりしないし、本当に紳士的な男だ。彼の歩んできた道程は若者たちに夢を抱かせるに違いない。この職業は、いくらでも上にいくことができるからだ。真面目に働いていれば、とてもやりがいのある仕事を手に入れることができるんだ。」 こう語るのは、『ルノートル』代表取締役社長のパトリック・シカール氏。彼はこのシェフ・ソムリエの熱烈なファンでもある。一方、オリヴィエは説明する。 「この職業に携わるには、謙虚でなければなりません。ソムリエの仕事は、謙虚さを学ぶためのすばらしい学校のようなものです。ワインは気難しくて複雑なものなのです。私はそのことを忘れたことはありません」 この大会に優勝することが最終目標なのだろうか?彼はこの考えを非常に警戒している。 「私たちはまだワインの世界を極めたわけではありません。国際的なレベルを保つためには常に勉強しなければなりません。こうしたコンクールは、そこに至る過程の一面であり、究極のものではないのです。かつての偉大なるソムリエたちは、コンクールなどしなかったのですから。」 1998年の12月以来、オリヴィエは毎日2時間ずつ訓練を続けている。試飲もしくは机に向かっての訓練だ。 「我々は彼を経済的に、また時間的にも支援した。彼は普段の仕事もしっかりこなしたし、実際、我々のためにワインを探して世界中の生産者を訪ねた。が、同時にそれは自分の大会に向けての勉強もにもなっていたんだ。相互的な作業なんだ。彼が優勝するかどうかは誰にも分からなかったが、私は即座に彼に言ったんだ。もし優勝したらちょっとしたお祝いをしよう、そして負けたときには盛大にパーティをしよう、とね」とパトリック・シカール氏。オリヴィエに余計な緊張を与えないための励ましの言葉だった。そして、こうつけ加えた。 『アコール Accor』(フランスの最大手ホテルグループのひとつ)の協力のおかげで、世界をめぐる道中はアコール・グループのホテルに宿泊することができた。駐車場、その他の備品、雑誌、書籍、ワインなどを含め、非常に大きな投資だったことは間違いない。 「率直に言って、いくらかかったかはわからない。このオーダーにどうやって値段をつければよいというのか?重要なのは、彼の実力をさらにアップすることなんだ。」とパトリック・シカール氏。 オリヴィエ・プシエは1982年にサーヴィスのCAP(職業適性証書)を取得した。「ワインやテロワール(産地の特色)について学ぶのはいつも好きでした」と彼は当時を振り返る。この時期の彼にとっての重要な出来事は、ダニエル・ガルとの出会いだった。彼はレストラン業界出身のサーヴィスの教員で、オリヴィエのやる気を奮いたたせる、よき相談役だった。彼はCAPを取得したオリヴィエをコミ・ドゥ・サル(サーヴィス見習い)としてトゥール・ダルジャンに送り込んだ。その1年後、若きオリヴィエはコミ・ソムリエ(ソムリエ見習い)となり、5年間従事した。彼の大きな転機はその後、ロンドンのホテル『コノート Connaught』のソムリエになったことから始まった。 「コミ・ソムリエとしての5年間は大変ではありませんでした。コミの立場なら少しの失敗なら許される部分もあります。ですが、一度ソムリエバッジを身につけたら、もはやそんなことは許されないのです。」 1988年から、彼はルノートル社のシェフ・ソムリエを務めている。彼の仕事の内容を手短に言えば、ルノートル系列のショップや、『プレ・カトラン PRE CATELAN』(ルノートル社経営の2ツ星のレストラン)のワイン買い付けのためにブドウ畑を歩き回ること。もちろん、サーヴィスの現場にも立つ。また、『メルキュール MERCURE』や『ノヴォテル NOVOTEL』(アコール系列のホテルチェーン)に置くワインのアドバイザー、そのほか、醸造に携わる人材の育成なども担当している。 ではこの先は?パトリック・シカール氏は『メルキュール』や 『ノヴォテル』、『ソフィテル SOFITEL』、『ワゴン・リ WAGONS-LITS』といったグループとの関係をより深めようと考えている。これはつまり、オリヴィエがさらに多くの時間をそこに費やすことになるということだ。今後、ワインリストの中に「オリヴィエ・プシエによるセレクトワイン」という一文を目にする機会も多くなるだろう。また、『ルノートル』のショップで販売するワイン部門の強化や、『エコール・ルノートル』(ルノートル社の料理学校)でのプロ対象上級コースの準備、トレトゥール部門(お総菜・デリカなど)の監督、特別な晩餐会でのワインの批評・・・。『ルノートル』の経営者とオリヴィエ・プシエの今後の構想は尽きることがない。さらに、ワインとデザートの相性に関する本の発行企画もあるようだ。 「私は、ワインとデザートの相性はワインとチーズの相性と、ある意味同じくらい重要だと思っています。多くの人がチーズのところでワインをやめてしまうというのは本当に残念なことです。」 『エコール・ルノートル』の製菓のプロたちとの共同作品は、今年の秋に発行されるらしい。こうしてオリヴィエ・プシエはソムリエとして、今後ますますその活躍の場を広げていくだろう。 「私たちの仕事は周りの人々に至福のひとときをもたらすことです。ですが、そのときにブドウ栽培者のことを忘れてはいけません。彼らには客の顔は見えないのです。彼らにこの喜びを伝えることが出来るのは私達しかいないのです。」 そして、彼は妻と2人の子供たちとももう少し多くの時間を過ごすことを約束した。
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