【とっておきのヨーロッパだより】パン・デピスを巡る旅 ~長い歴史と伝統が受け継がれている地方菓子の魅力~
<【とっておきのヨーロッパだより】ってどんなコラム?>
2012年春よりフランス校の勤務になり、フランスで過ごす初めての冬を経験しました。
12月に入ると町はクリスマスムード一色です。
日本の製菓学校でも季節ごとに変わる校内のディスプレイに携わっていましたが、ここフランス校でも、
クリスマスの飾り付けを担当することになりました。室内に本物のモミの木のクリスマスツリーが用意され、
これを様々に飾り付けていきます。
飾ったものは、レープクーヘン Lebkuchen(※注1) というドイツのクリスマスのお菓子です。
(左・真ん中)レープクーヘン。表面を色とりどりのアイシングでパイピングして飾りとして使用しました
(右)ツリーに飾ったレープクーヘン
飾り付けを終えた後にフランス人の先生たちから、「この飾りは何?パン・デピス?」との質問が。
パン・デピス Pain d'épices とはフランスに古くからあるお菓子で、小麦粉またはライ麦粉、ハチミツにアニス、丁子、
シナモンなどの様々なエピス épice(香辛料)、それに膨張剤を混ぜて作ります。私にとってフランスのパン・デピス
には、"香辛料が入ったパウンドケーキ"というイメージがありました。
「これはレープクーヘンです。パン・デピスはこんなに薄くないし、パイピング(※注2)もしないのでは?」と聞き返すと、
「こんな風に薄くてパイピングしたパン・デピスがフランスのアルザス Alsace にもあるよ」と...
フランス北東部のアルザス地方で有名だというパン・デピスはどのようなものか自分の目で確かめてみたくなった私は、
早速パン・デピス探しの旅に出かけることにしました。
ストラスブール Strasbourg の町の中はクリスマスシーズンということもあり、マルシェ・ド・ノエル Marché de Noël
(クリスマス市)でにぎわっています。
(左)ストラスブール
(右)クリスマス市の様子
早速、パン・デピス発見。あちこちのお店にたくさん並んでいます。パウンドケーキのような形をしたものから、
楕円形のもの、薄くのばして型で抜き、パイピングした、ドイツのレープクーヘンにそっくりなものなどさまざまな形が
たくさんありました。
香辛料のいい香りがしました
レープクーヘンとパン・デピスの類似性について調べてみると、ルーツは同じものであるという説をとなえる文献が多い
ようです。
ハチミツは人類が獲得したもっとも古い甘味料であり、これを用いた食物は世界各地で古くから作られていたようですが、
10世紀ごろの中国で作られていたミー・コン Mi-Kongと呼ばれる食物がパン・デピスの原型と言う説があり、これは小麦粉と
ハチミツで作られていたようです。
一説にはこのミー・コンがチンギス・ハンの西進によって現在の中東地域まで伝わり、さらに中東地域まで遠征した
十字軍(※注3)のキリスト教信者たちがヨーロッパに香辛料や菓子のレシピを持ち帰り、その後ライン川沿いに広まって
いったとされています。(※注4)
16世紀まではドイツの各地の修道院のみでクリスマスの大市で売るために作られはじめました。さらにミュンヘン、
ニュールンベルクといったドイツのいくつかの町でレープクーヘンという名で広まり、さらにライン川に沿って現在の
フランスのアルザス地方へも伝わっていきました。(※注5)
レープクーヘンはドイツ語で"命の菓子"という意味があり、中世には薬と同じように扱われ、また保存食として珍重された
そうです。使用されているハチミツや様々な香辛料に薬効があるとされたのでしょう。レープクーヘンはフランス語では
「パン・デピス(香辛料のパン)」 として、配合などはそれぞれの土地によって変わりながらも各地に広まっていったようです。
長い歴史があるこのお菓子は今でもヨーロッパの各地で作られ、子供から大人まで食べられています。
こんな風に一つのお菓子が長い歴史の中、幅広い地域を経由してそれぞれの国で歴史を作り、国から国へと様々に伝わり
つながっていることの奥深さには、とても面白いものを感じます。
ストラスブールより少し南に下った小さな町ゲルトヴィレール Gertwillerへ向かいます。
(左)ゲルトヴィレールの町
(右)町の看板案内。ワインの銘醸であるアルザス地方だけあって「ラ・ヴィティクルトゥール La viticulture」
(ブドウ栽培)と「ル・パン・デピス Le pain d'épices」(パン・デピス)の表示
16世紀ごろよりこの街にはパン・デピス作り専門の職人ができるなど、パン・デピス作りが盛んな町として知られています。
聖人の図像をもとに掘って作られた木型に生地を敷き詰めて、型から出た余分な生地を切り落とし、型から外して作られて
いたものが、市場で売るために18世紀ごろには生地を薄くのばして押し抜き型でカットされ、作られるようになりました。
また同じ時期よりパン・デピスに描かれる聖ニコラウスの祝日(※注6)にパリでも売られるようになり、広まりはじめました。
街中にあるパン・デピスの専門店『リップスLIPS』は、創業1806年の老舗。お店には商品販売の店舗スペース以外にも、
パン・デピスの製造工程を見られる場所がある他、隣接した「パン・デピス博物館」などの見学をすることが出来ます。
博物館内には、パン・デピスの歴史や材料、作り方、昔からお菓子作りに使われていた器具、今では目にすることが出来ない
貴重な器具などが展示されています。
(左)店の看板
(右)店の外観。壁にはたくさんの パン・デピス が描かれていてとてもかわいいです
店のショーウインドー。たくさんのパン・デピスがきれいにディスプレイされていました
フランスでは菓子作りの際、パン粉やスポンジ生地を乾燥させた粉をケーキやタルトに混ぜたりすることがありますが、
パン・デピスが名産のこの辺りの地域では、パン粉の代わりにパン・デピスの粉末を用いる事もあるそうです。
リンゴや洋ナシのタルトに混ぜ込むととても美味しくなるのだとか。
パン・デピスの粉末も販売されています
生地にびっしりと、まるでペンで書かれたかのようにパイピングされているのは、店の創業した19世紀から受け継がれている
パン・デピスのレシピだそうです。「リップス」ではたくさんの量を作るよりも"品質第一"と考え、伝統的なパン・デピスの
作り方を今でも受け継いで職人の技術を守りつづけているのだと、見学の際にお店の方は説明して下さいました。
ビックリするぐらい大きいパン・デピス
ここでパン・デピス作りに使用されている香辛料はアニス、シナモン、丁子、生姜、カルダモンの5種類。さらにオレンジと
レモンの皮の砂糖漬けが練りこまれているそうです。
パン・デピスの材料。左から(ビンのふたに)ハチミツ、(袋に)アーモンド、ヘーゼルナッツ、小麦粉、香辛料、砂糖
流れるままオーブンの中へ。ベルトコンベアーで移動しながら生地が焼けてきます。
(左)練った生地を機械に通して薄くのばし、楕円形にくりぬいたものが出てきてベルトコンベアーで次の機械に移動します
(右)オーブン温度は約160~170℃(生地の大きさによって焼成時間は変わります)
香辛料の良い匂いが漂っていました。
焼き上がった生地の上に、さらにグラス・ロワイヤルのコーティングがかけられます
今まで学校の授業やディスプレイ用には少量で作ったことしかなかったパン・デピスでしたが、工場を見学することで、
改めてどのような工程で作られているか見ることができ、勉強になりました。また博物館は今では使用したことのない珍しい
貴重な器具がたくさんあり、興味津々で見入ってしまいました。
フランスにはパン・デピスを名産としている町は他にもいくつかありますが、フランス中東部ブルゴーニュ地方の
ディジョン Dijonという町もそのひとつです。ディジョンはアルザス地方のようにライン川沿いにある地域ではなく、前述の
レープクーヘンやパン・デピスなどの歴史的な伝播ルートからは外れるのですが、一説によると14世紀ごろ、北フランスの
フランドル地方のマルグリット王女が ここディジョンに嫁いだことからパン・デピスが入ってきたと言われています。
ディジョンは香辛料とマスタードで有名な土地のため、スパイス類を多く混ぜたこのお菓子が好まれ定着する土壌があったと
言われているそうです。
『ミュロ・エ・プティジャン MULOT & PETITJEAN』は、ディジョンでも古くからあるパン・デピス専門店の一つです。
店のマダムと少しお話をすることができましたが、この店で作られているパン・デピスは200年前から昔のレシピのまま作られ
続けて今に至るのだそうです。
伝統が守られ続けているのですね。
(左)店の外観。創業は1796年とのこと
(右)店内の様子
店内にはたくさんのパン・デピス が並んでいます。最初に訪れたゲルトヴィレールのあるアルザス地方とは異なりパイピング
したものは少なく、パウンドケーキ型のものがより多く見受けられました。他にも、アルザス地方でも見かけた楕円形などの
形の他、靴やカタツムリなどのユニークなものまで、種類豊富な形のパン・デピスが並びます。中には、枕のように大きな形に
作られたものもありました。また春の復活祭(※注7)には鐘形や鳥、卵に魚の形をしたものなども作られるそうです。
効率良く一度にたくさん作って販売するため、このように大きく作って焼く伝統があるそうです
そしてさすが香辛料が有名な町だけあって、パン・デピスを作るのに使用している香辛料が多いこと! アルザスで使用されて
いたのは5種類の香辛料でしたが、こちらではシナモン・アニス・ショウガ・カルダモン・コリアンダー・クミン・丁字・
ナツメグ・黒こしょう・・・たくさんありすぎてビックリ!!! たくさんの香辛料が入っているだけあって店内には香辛料の
よい香りが漂っていました。
取材したのが1月の年初めだったこともあり、季節のお菓子であるガレット・デ・ロワ Galette des rois(※注8)も売られていた
ので購入してみました。本来はパイ生地を使う部分にパン・デピスが使われているのが特徴的で、他の店でもパン・デピス生地を
使ったガレット・デ・ロワがショーケースに並んでいるのが多く目に入りました。パン・デピスの有名な、ディジョンならではの
独自性を感じました。
金色の王冠がついているのがガレット・デ・ロワ
ひょんなことから始まった旅でしたが、長い歴史の中で少しずつ形を変えつつも、幅広い地域に根づき、伝統が守られ
受け継がれている パン・デピスをめぐる旅はとても奥が深くて面白く、調べれば調べるほど発見があり、勉強になりました。
取材協力店:
Pain d'Epices LIPS
110 rue Principale-67140 GERTWILLER
Tél.03 88 08 93 52
Fax.03 88 08 53 78
www.paindepices-lips.com
MAISON MULOT&PETITJEAN
13,place Bossuet 21000 Dijon
Tél.03 80 30 07 10
www.mulotpetitjean.fr
※注1: ハチミツ、小麦粉、ライ麦などを混ぜ合わせ作る古典的な焼き菓子。生地には様々な配合があるが、主に「ホーニッヒクーヘンタイク」(甘味料としてハチミツだけを用いるもの)」と「レープクーヘンタイク」(甘味料に砂糖・水飴・ハチミツなどを使って作るもの)2種類がある。生地には数種類のスパイスを練りこみ、薄くのばして焼き上げるが、その前に練り上げた生地を3~4ヶ月ほどしっかりと寝かせて休ませるのが特徴。
※注2: 色とりどりのグラス・ロワイヤル(砂糖と卵白で出来たペースト)でデコレーションしたもの。
※注3: 十字軍がエルサレムをイスラム教徒から奪回するためにキリスト教徒が行った大遠征(11世紀末~13世紀末)のこと。
※注4: 参考文献『お菓子の歴史』(マグロンヌ・トゥーサン=サマ著、河出書房新社刊)
※注5: 参考文献『HISTOIRES DE PAINS D'EPICES』(SYLVIE BUCHER著EDITIONS HIRLÉ)
※注6: アルザスの一般家庭ではパン・デピスが聖人に捧げられる習慣があり、12月の初旬には聖ニコラウスを称えてパン・デピスを食べる。
※注7: 復活祭(イースター) 十字架に架けられたキリストが7日目に復活したことを祝う、キリスト教の宗教祝日。
復活や生命の象徴として卵やウサギ、子羊など様々なイメージをかたどった菓子が作られる。特に卵は菓子のモチーフとなる他、卵それ自体殻に色をつけたり絵を描いたものを教会に奉納し、もしくは贈り物にして食べたりもする。
※注8: 公現祭(キリストが生誕後神の子として初めて公に姿を現したとされるキリスト教の宗教祝日)の祝い菓子。
折り込みパイ生地でアーモンドクリームを包んで焼く菓子だが、中に「フェーヴfève(空豆という意味)」と呼ばれる、様々な形に焼かれた小さな陶器を1つ入れておき、切り分けられたガレットの中にフェーヴを見つけた人はその日の"王様"になれる、という伝統がある。