【とっておきのヨーロッパだより】パレ=ロワイヤルの今 ―個人的な覚え書き―
<【とっておきのヨーロッパだより】ってどんなコラム?>
1. はじめに
パレ=ロワイヤル Palais-Royalはパリの1区、ルーヴル美術館の北向かいにある。長方形の広い中庭を囲むようにして、四方に建物が立ち並ぶ、その敷地の全体をパレ=ロワイヤルと呼ぶ。今も多くの人がここを訪れる。私も学生時代に一度足を運んだが、正直なところ、当時の私にとってはよく分からないことの多い場所だった。ヴェルサイユ宮殿などの有名な歴史的建造物と比べるとかなりコンパクトだし、美術館や博物館がある訳でもない。中庭を囲む建物の一階は回廊になっていて、平日にはブティックやカフェが営業しているが、パリの他のデパートやショッピングセンターと比べるとお客は少なく、静かである。普段は中庭だけが一般に開放されており、建物の中に入ることができないこともあって、なかなか全体像がつかみにくい。一体、パレ=ロワイヤルのどういうところに魅力があるのだろうか。
辻調グループに入職してから、パレ=ロワイヤルが、フランスの高級料理の歴史のなかで重要な役割を果たしていることを知った。19世紀、特に1800年頃から1830年頃まで、この場所に多くの高級料理店(今でいう「レストラン restaurant」)が集まったというのだ。高級料理という商品をお客に売る店がフランスで登場したのは18世紀後半頃だと言われているから、パレ=ロワイヤルは、その後こうしたスタイルの店が普及するための土台を築いたといっても過言ではないだろう。あの静かな佇まいの建物の、「熱い」歴史の一端を知り、もう一度足を運んでみたくなった。
パレ=ロワイヤルは今、どんな様子なのだろうか。現在のフランス社会の中で、あの場所はどんな役割を担っているのか。かつて抱いた疑問についてもう一度考えるために、2013年9月14・15日の「ヨーロッパ文化遺産の日」(注1)に、パレ=ロワイヤルを再び訪れた。そこで見聞きしたことをもとに、「パレ=ロワイヤルの今」について書いてみたい。といっても、私は歴史や建築の専門家ではなく、フランスの社会や文化、料理やお菓子のあり方に興味がある一人の日本人に過ぎないので、この文章は個人的なメモ、覚え書きにとどまる。
(左)パレ=ロワイヤル入口(サン=トノレ通り側)
(右)「ヨーロッパ文化遺産の日」にも多くの人が訪れていた
それでは、パレ=ロワイヤルに足を踏み入れよう。
2. パレ=ロワイヤルの歴史
フランス語で「パレ palais」は「宮殿」や「官邸」、「公共建築物」などの意味がある名詞で、「ロワイヤル royal」は主に「王の」という意味の形容詞だから、パレ=ロワイヤル Palais-Royalを日本語に置き換えるとすれば「王の宮殿」、「王宮」といったところだろう。現在フランスに王は存在しないのに、なぜこのように呼ばれているのだろうか。この場所の「今」をよりよく理解するためにも、まずは過去を振り返ってみる必要がありそうだ。ここでは、17世紀から20世紀ごろまでのパレ=ロワイヤルの歴史を簡単に辿ってみよう(注2)。
リシュリュー枢機卿の宮殿
1624年、フランス王ルイ13世の宰相リシュリュー Richelieuは、当時王宮だったルーヴル宮(現在のルーヴル美術館)の近くに自分の宮殿を設けたいと考え、現在のパレ=ロワイヤルが位置する区画と、その周辺の邸宅を買い取る。広い庭園を備えた宮殿に生まれ変わったその場所は、"リシュリュー枢機卿の宮殿"という意味で、パレ=カルディナル Palais-Cardinalとも呼ばれた。リシュリューは1642年に死去、パレ=カルディナルはルイ13世に遺贈されるが、1643年には王も亡くなる。
ルイ14世の王宮
1643年、ルイ14世が王に即位し、その母アンヌ・ドートリッシュ Anne d'Autricheが摂政となる。同年、彼女はまだ幼い王とともに王宮をルーヴル宮からパレ=カルディナルに移し、その後1652年までここに居を構える。この場所が「王の宮殿」という意味のパレ=ロワイヤルという名で呼ばれたのはこの頃からだろう。フロンドの乱の最中、アンヌ・ドートリッシュが王宮を再びルーヴル宮に移した後、パレ=ロワイヤルは一時的に、ルイ13世の妹で英国王チャールズ1世の妃アンリエット=マリ Henriette-Marieの邸宅となる。
1661年、アンリエット=マリの娘アンリエット=アンヌ Henriette-Anneと王弟オルレアン公フィリップ Philippeの結婚を機に、パレ=ロワイヤルはオルレアン公に譲られる。
オルレアン家の時代と大改修
オルレアン家によるパレ=ロワイヤルの所有は続き、この間に大規模な改修も行われた。第4代オルレアン公ルイ・フィリップ Louis Philippeは、1750年から1754年にかけて改修に取り組み、1780年には中庭を一般の人々にも開放するという条件とともに、パレ=ロワイヤルを息子のルイ・フィリップ・ジョゼフ Louis Philippe Joseph(第5代オルレアン公)に譲った。財政難に苦しんでいた第5代オルレアン公は、パレ=ロワイヤルの全面的な改修、特に中庭を取り囲む建物の改装を計画する。ここを住居や商店として賃貸することを目論んだのだ。新装後、中庭を囲む三面には雨に濡れずに歩ける回廊(フランス語では「ギャルリー galerie」)が備えられ、高級ブティック、流行のカフェや(高級料理店としての)レストラン、劇場や賭博場が集中した。パレ=ロワイヤルは当時、「クール・バトン・ド・パリ Cœur battant de Paris(パリの脈打つ心臓)」とまで言われたという。
「フィリップ平等公」とフランス革命
第5代オルレアン公は「フィリップ・エガリテ Philippe Egalité(フィリップ平等公)」とも呼ばれる自由主義派の王族だった。フランス革命への気運が高まるなか、彼はパレ=ロワイヤルの中庭を一般に開放し続け、自由な議論や政治的集会(焚書や乱闘などの過激なものも含む)を許した。1789年7月12日には、ここでジャーナリストのカミーユ・デムーラン Camille Desmoulinsが民衆を前に演説し、バスティーユ牢獄への行進を扇動したという。「フィリップ平等公」は、いとこにあたるルイ16世の処刑に賛成票を投じたものの、1793年、斬首刑に処された。
パリの美食スポット
パレ=ロワイヤルにレストランが開業しはじめるのも18世紀後半ごろからだ。貴族に仕えていた料理人たちが、貴族層の力が弱まるとともに館を離れ、高級料理と質の高いサーヴィスを金で買える商品として提供するようになる。例えば、18世紀後半から19世紀前半を代表する料理人のアントワーヌ・ボーヴィリエ Antoine Beauvilliersは、プロヴァンス伯(のちのルイ18世)のもとを離れ、1782年にパリで「グランド・タヴェルヌ・ド・ロンドル Grande Taverne de Londres」(注3)を開業し、当時は他に例のなかった「高級料理店」というスタイルを切り開くと、1787年にはパレ=ロワイヤルに店を移転している。「ブルジョワジー bourgeoisie」と呼ばれる、王でも貴族でも教会関係者でもない富裕な人々の多くがこうした店に足を運び、豪華な装飾が施された空間で、野菜、魚、肉、果物、デザート、ワイン、リキュール、コーヒーなど様々なジャンルの料理や飲料を味わった。
当時のパリの飲食店は、扱う商品によっていくつもの業種に分かれていて、それぞれが王の認可を得てギルド guilde(同業組合)を結成していた。あらゆるジャンルの料理や飲料をお客に提供するレストランは、既存の法や飲食店と激しく衝突したに違いない。それにもかかわらずボーヴィリエらの店が営業し続けることができたのは、前述したようにパレ=ロワイヤルが法や規制からある程度自由な場所だったからだろう。1791年にギルド制が公式に廃止され、高級料理店の新規参入が容易になると、パレ=ロワイヤルへのレストランの出店は集中し、1800年頃から1830年頃まで、美食スポットとしての黄金時代を迎える。
王政復古と衰退
第5代オルレアン公がギロチンにかけられた後、パレ=ロワイヤルは国家の所有となる。その後ナポレオン Napoléonの第一帝政が幕を閉じ、ブルボン家のルイ18世による王政がはじまると、パレ=ロワイヤルは再びオルレアン家のものになる。第5代オルレアン公の息子で後のフランス王(1830年から1848年まで)ルイ=フィリップ Louis-Philippeは、ルーヴル宮側のサン=トノレ通りと中庭の間にある建物を改修した。
1830年代頃から、パレ=ロワイヤルはそれまでの輝きを次第に失っていく。1836年にルイ=フィリップがこの区画での賭博や売春を禁じたことで、「盛り場」としてのダイナミックさはなくなっていく。人々は次第に北側のグラン・ブルヴァール Grands Boulevars(注4)を訪れるようになり、料理人たちもそこにレストランを開業しはじめる。高級ブティックがヴァンドーム広場やロワイヤル通りに移転するとともに、巨大デパートが出現して人気を呼び、パレ=ロワイヤルに残された商店は苦戦を強いられる。
第二帝政、パリ・コミューン、再建
1848年に二月革命がおこり、ルイ=フィリップによる王政が倒れて第二共和政がはじまると、パレ=ロワイヤルは再び国家の所有となり、名前もパレ=ナスィヨナル Palais-Nationalに変わる。ルイ・ナポレオン Louis Napoléonが皇帝に即位して第二帝政がはじまる頃には、パレ=ナスィヨナルは再びパレ=ロワイヤルと名を改め、ナポレオン1世の末弟でウェストファリア王(1807年から1813年まで)のジェローム・ボナパルト Jérôme Bonaparteや、その息子ナポレオン公の住居となった。
パリ・コミューンの最中の1871年、衰退に追い討ちをかけるようにして火事がパレ=ロワイヤルを襲い、建物の一部が失われる。しかし19世紀後半からは、再建に向けた動きも目立ちはじめる。パリの交通状況を改善するための計画の一つとして、パレ=ロワイヤルの中庭を横に貫く大通りを作るというものも現れた。最終的には1920年代半ばから1930年代半ばにかけて、パレ=ロワイヤルの建物はそのままに、東側のヴァロワ通りから、パリ銀行から商品取引所にいたるコロネル=ドリアン通りを開通させることで落ち着いた。こうした国家的な取り組みが功を奏して、今もパレ=ロワイヤルは「たゆたえども沈まず」(注5)にパリにあり続けている。
3. パレ=ロワイヤルの今
17世紀半ば、パレ=ロワイヤルには王が住んでいたが、現代のフランスに王は存在しない。パリの商業の中心も、今や「ギャルリー・ラファイエット Galeries Lafayette」をはじめとするデパートや、「レ・アール Les Halles」などのショッピングセンターに移ったと言えよう。カフェはパリ中に点在するようになり、政治家や知識人はテレビやラジオ、あるいはインターネット上で議論を交わしている。鉄道や自動車が登場し、人々の旅行や生活のスタイルが変化するなかで、高級料理店もフランス各地に広まっていった。かつてパレ=ロワイヤルが果たしていた役割は、今では他のものが担っているように思える。それではこの場所は今、何のために存在しているのだろうか。
政府機関の集積地
現在パレ=ロワイヤルは、文化通信省、国務院、および憲法評議会の所在地になっている。文化通信省は、歴史的建造物や文化財、言語や芸術作品の保護と普及に取り組む。近年では通信技術に関わる政策も担当している。国務院は行政、立法についての諮問機関で、法案や政令案を審査し、政府の求めに応じて政策の研究と助言を行う。上級行政裁判所も兼ねていて、市民の権利や行政に関わる申し立てや係争を扱う。憲法評議会は、大統領や国民議会議長、元老院院長から任命された9名と前大統領によって構成され、法律の合憲性を審査し、選挙の適法性を保障する。パレ=ロワイヤルは、フランスの政治にとって重要な場所であり続けている。
(左)憲法評議会(外観)
(右)憲法評議会(入口)
文化的拠点
パレ=ロワイヤルの北と南にある2つの歴史的な劇場、「コメディー=フランセーズ Comédie-Française」と「テアートル・デュ・パレ=ロワイヤル Théâtre du Palais-Royal(パレ=ロワイヤル劇場)」は今日も健在で、多くの観客を魅了している。また1980年代以降は、ポル・ビュリー Pol Buryの球体(1985年)や、ダニエル・ビュレン Daniel Buren作の柱のオブジェ(1986年)など、現代美術の作品も敷地内に据えられている。パレ=ロワイヤルは今もなお、パリの文化的拠点の一つだと言えるだろう。
コメディー=フランセーズ(外観)
憩いの場としての中庭
パレ=ロワイヤルの中庭は、パリで一息つくには絶好の場所だ。広々とした庭の中央には噴水があり、両側には木々が立ち並ぶ。人々はここで静かに散歩や日光浴、ジョギングや読書を楽しんでいる。かつて「パリの脈打つ心臓」とまで言われ、激しい政治的活動も繰り広げられたこの中庭は、今ではパリで生きる人々が憩いの一時を過ごすための場になっている。
今も輝きを失わない「グラン・ヴェフール Grand Véfour」
パリの歴史的名店の一つである「グラン・ヴェフール Grand Véfour」は、パレ=ロワイヤルの北側、ボージョレ通りの一角にある。店名はジャン・ヴェフール Jean Véfourという料理人にちなんでいる。1820年ごろ、彼は同じ場所で営業していた「カフェ・ド・シャルトル Café de Chartre」(1784年ごろ開業)という高級カフェを改名、レストランに転換した。1830年代以降、パレ=ロワイヤルの他のレストランが商業的に苦戦するなか、「グラン・ヴェフール」は評判を維持し、多くの政治家、文化人が足を運び続けた。20世紀前半からは衰退したが、1948年にレーモン・オリヴェ Raymond Oliverがオーナーシェフに就任すると再び人気を取り戻し、1953年には『ミシュランガイド』で3つ星を獲得した。1990年にレーモン・オリヴェが亡くなった後、1991年にはギー・マルタン Guy Martinが若干34歳の若さでシェフに就任、2000年にはこのレストランに再び3つ星をもたらした(2013年現在は2つ星)(注6)。
(左)グラン・ヴェフール(入口側)
(右)中庭に面した窓には「カフェ・ド・シャルトル CAFE de CHARTRE」とある
パレ=ロワイヤルを再び訪れた際、私もここで昼食をとった。レストランの受付では、ギー・マルタン氏が直接お客を出迎えていた。メインの客室に入る。中庭側のガラス窓から差し込む日光がまぶしい。明るくきらびやかな空間には、お客の声が満ちている。その間を縫うようにして、サーヴィスのチームが隙のない動きを見せる。この場所の歴史に思いを馳せながら、洗練されたフランス料理(スイカとともに食べる鴨のフォワ・グラや、酒の中で火を通した子鴨の胸肉など、日本風のタッチが感じられるものもあった)を堪能した。「グラン・ヴェフール」は、パレ=ロワイヤルがパリ随一の美食スポットだった頃の輝きを、今も守り続けている。
グラン・ヴェフール(店内)
(左)フォワ・グラ・ド・カナール Foie gras de canard(鴨のフォワ・グラ)
(右)フィレ・ド・カネット・キュイ・ダン・デュ・サケ Filet de canette cuit dans du sake(酒の中で火を通した子鴨の胸肉)
歴史を刻む場所 回廊の記憶
パレ=ロワイヤルの回廊の構造は今も、18世紀後半に第5代オルレアン公が改装した時のものとほぼ同じままだという。回廊の天井は高く、歩道と中庭のあいだには角柱が立ち並ぶ。今もここではブティックやカフェが営業しており、高級ブティックやレストランが集積した時代の面影を残している。フランス革命以来の、パリで生きた人々の記憶もここに刻まれている。この回廊は、歩くだけで近代フランスの歴史の厚みを感じることができる、稀有な場所の一つである。
(右)作家のコレット Coletteはパレ=ロワイヤルで晩年を過ごした
パレ=ロワイヤルの最大の魅力は、そこに刻まれた歴史にある。そしてこの場所はこれからも、ここに蓄積された記憶を後世に伝えるとともに、フランスの、パリの歴史を刻み続けるだろう。
4. おわりに
パレ=ロワイヤルはおよそ400年のあいだ、ずっと同じ場所でフランスの歴史を見届けてきた。フランスにはパレ=ロワイヤルのような、人々の歴史や記憶が蓄積された建造物がたくさんある。こうした建造物やそれを囲む街並みを目にする度に、日本では築年数の浅い団地やマンションに住むことの多かった私は、いつも新鮮な驚きをおぼえる。フランスが毎年多くの観光客を呼ぶことに成功し、高級料理の世界がいつも活気づいていることの秘訣の一つには、この国の(私からは時に「頑固」にも見える)歴史や記憶との向き合い方が挙げられるのではないだろうか。
フランスのレストランやカフェに行かれたら、その場所で生きた人々や、そこで起こった出来事に思いを馳せて、その土地の歴史に自分も同じ人間として参加するような気持ちで、食事の時間を過ごされるのも一興だと思う。
(注1)ジュルネ・ユーロペエンヌ・デュ・パトリモワンヌ Journées Européennes du Patrimoine。パリをはじめ、フランス全土の歴史的建造物が一般に公開されるイベント。多くの場合、9月の3番目の週末に催される。30回目となる2013年のテーマは「サン・タン・ド・プロテクスィヨン100 ans de protection(保護の100年)」で、1913年12月31日に歴史的建造物の保護についての法律が制定されてから100年が経ったことを記念した。
(注2)パレ=ロワイヤルの歴史と現在については、「ヨーロッパ文化遺産の日」に配られていたパンフレット(ミシュラン社刊)のほか、以下の出版物を参照した。『Le Palais-Royal』(Edition du Patrimoine)『フランス料理ハンドブック』(辻調グループ 辻静雄料理教育研究所 編著、柴田書店)、第10章「フランス料理の歴史」
(注3)「ロンドン風のタヴァーン tavern」といった意。英語のタヴァーンや仏語のタヴェルヌは「居酒屋」、「飲み屋」などを指す言葉。ボーヴィリエはイギリスの料理を好んでいたという。(参照:『プロのためのフランス料理の歴史』(ジャン=ピエール・プーラン、エドモン・ネランク共著、山内秀文訳、学研、p.66))
(注4)「セーヌ右岸のマドレーヌ広場からレピュブリック広場までの間の、キャピュシーヌ、イタリアン、ポワソニエールなどの大通りが続く目抜き通り。」(『フランス料理ハンドブック』p.387)
(注5)パリ市の紋章にある銘文。
(注6)参照:『Dictionnaire des cuisiniers』(Jean-François Mesplède著、Page d'Ecriture)