辻調塾in代官山蔦屋書店:第6回トークイベント「今だから、辻静雄の話をしよう!《料理人の休日》」
1月30日の第6回辻調塾in代官山蔦屋。
辻静雄ライブラリーの復刊記念に行ってきたトークイベント
「今だから、辻静雄の話をしよう」。
6冊目になる「料理人の休日」については
辻調グループの辻静雄料理教育研究所の所長であり、フランス料理を研究してきた八木尚子さんと、同じく元所長であり現在は顧問でもある山内秀文さんがスピーカーとしてお話をしました。
二人の所属する辻調グループの辻静雄料理教育研究所は、1960年の辻調理師学校ができた当初からあります。辻静雄自身が、その理論の研究に、また、自分と一緒に知識について教えられる人材を養成しようという気持ちから、こういう研究所を作ったのではないかと話す八木さん。
これまでは、ゲストスピーカーが知る、あるいは考える辻静雄像を中心に語っていただいてきましたが、今回は、総集編的に辻静雄の軌跡をフランス料理の動きと連動して振り返り、辻静雄なら、今のフランス料理をどうみるだろうかということを話してみようと試みました。
1960年代は、辻静雄がフランス料理の研究を始めた時期。
まず最初に、辻静雄がフランス料理を研究をしていく上で、恩人となったのがフィッシャー女史、サミュエル・チェンバレイン氏の二人です。
辻静雄がフィールドワークに出かけた1963年。直接フランスに行く前に、アメリカに二人を訪ね、外国人としてフランス料理をどう研究してきたかということを尋ねています。そこでフランス料理の研究に対する示唆と自信を得ます。
そして、辻静雄は、5通の紹介状をいただいたと語っています。
その一つが、フェルナン・ポワンのピラミッドです。フェルナン・ポワンは、20世紀前半の三大料理人の一人。
辻静雄は、そこでマダム・ポアンに出会い、自分のおばあちゃんみたいなものだと慕うようになります。彼女もまた、初めてやってきた日本人に、何一つ隠すことなく、すべてフランス料理に関することを教え導きました。辻静雄がピラミッドを訪ねたときには、フェルナン・ポワンは、すでに他界していましたが、彼は、あくまでも複雑な料理の技術を通して、簡素化へということを重んじ、それをつきつめた段階にまで持っていった人で、簡素化という技術をシンプルにしていくことがはっきり意識されるようになった。ポワンの料理は、その出発点となった料理ともいえます。
辻静雄が使った紹介状は、もう1通。5通のうち2通しか使わなかったそうです。2つの入り口があれば、もういいやと思ったらしいのです(笑)。
そのもう一人は、レイモン・オリヴィエ。
1970年代、料理大使といわれたほど有名で、パリでグラン・ヴェフールというレストランを営み、同時にテレビ番組にも早い時期にでていて、人気シェフになった人です。多くの本のコレクションを持っていて、辻静雄と共感するところがありました。このように、レイモン・オリヴィエの紹介も含めて、辻静雄はパリの料理界に友人、ネットワーク、普通では得られないような、つながりを効率よく作っていきました。
80年代になり、ヌーベルキュイジーヌをけん引するシェフたちの7,8割をフェルナン・ポワンの弟子たちがしめていました。ある意味で、ポワンはヌーベルキュイジーヌの生みの親。その意味で、ヌーベルキュイジーヌの王道を辻静雄は歩いていたのです。
ヌーベルキュイジーヌの特徴に食材を尊重する。ということがあげられます。
典型的なのが、弟子の一人ボキューズ氏が一世を風靡した「市場の料理」。
その日その日市場にいって、食材の顔をみてするという料理です。
例えば、鱸(スズキ)のパイ包み焼きでいえば、ボキューズ氏曰く、鱸を美味しく食べるため、旨味を閉じ込めるために、パイ包みにします。鱸の身をしっとりと仕上げるためだけに、オマールのムースを一緒に包みます。すべては鱸という食材のためにある。実際にお皿に盛りつけたときもシンプルで、不要なつけあわせは、必要ない。味の組み合わせもシンプルに構成していこうという考え方です。ソースも、ソース・ショロンという、食べたときに口当たりが重いというそれまでのソースを改良して、軽さをもたらしました。
他にも、ヌーベルキュイジーヌが目指したものは、新たな機械、テクノロジーを積極的に使っていこうということがはっきり打ち出されていました。それによって、ムースみたいなものが非常に流行しはじめる。また、食材をみて料理を作っていくということは、日々、食材によって生まれる料理がかわってくるということ。創造性を料理に取り込む一方で、地方の伝統を守ってそこから何かを生み出していくということも、ヌーベルキュイジーヌの中にはありました。
おそらく、その動きは今の料理にも通じます。ですから、ヌーベルキュイジーヌは非常に大きな変革であった、その中で辻静雄はずっとフランス料理をみつめてきて、教育者としていえば、学校の中でどういう料理を教えたらいいのかを模索しながら、学生たちを教えて、今の人たちを育ててきたのです。
またヌーベルキュイジーヌのときにサーヴィスの方法も大きく変わりました。
それまでは、平目なら一匹蒸し煮、鴨なら丸ごと大皿に盛り付けて、切り分けるというのが基本でしたが、一皿ごとに盛り付けて完結させることで味の見立てが変わったのです。それは、エスコフィエにもみられますが数が少ない。19世紀の後半以降に、大皿に盛ったものを、切って取り分けるような形態になったようですが、一皿ごと仕上げ、この料理を「今」味わってもらうために仕上げるのはヌーベルキュイジーヌからです。そして、主役は完全に料理人にうつり、厨房の組織も変わりました。
アンリ・ゴーという人が、クリスティアン・ミヨと、ミシュランと並ぶ「ゴー・ミヨ」というガイドブックを出しましたが、彼らがヌーベルキュイジーヌの方向性という10か条を示したことによって、メディアの力も受けて世界中に広まりました。
辻静雄は、1980年にジョエル・ロブション氏を学校に招聘しています。ロブション氏が独立する前の、コンコルド・ラファイエットというホテルの料理長をしていた、日本ではまだ名前を知られていなかったころから、辻静雄はこの人の技術を学生にみせたいということで、招聘したのです。80年代は、この人を中心に回っていた。日本はこの人をものすごく尊敬しながら、この人の料理を勉強しながら回っていました。
さらに、この頃ミシュランでも周辺の国々に三ツ星レストランができます。イギリス、ベルギーやドイツなど、辻静雄の目もフランスの外へと広がっていきました。さらにフランス料理にも軽さというのが際立ち、日本が学ぶべきことがあるとすれば、ドイツや外側の料理もみなさいということで、研修に出ている時代です。
このあと90年代にミシェル・ブラスなどが出てくるわけです。
ミシェル・ブラスが、牧草地で牛しかいないようなところでお店を開き、三ツ星をとったのは、90年代の最後。独自の世界観を表現しました。この人の料理からテロワール、その土地を料理の中に反映していくことが鮮烈に表現されるようになります。
そして、21世紀。フェラン・アドリア、「エル・ブリ」といえば想像がつくでしょうか。
プロジェクターには、液体窒素の中にいれたメレンゲが映し出されました。
彼は、現代の料理を語るうえでは、欠かせない人物ですし、ヌーベルキュイジーヌでも話をしましたが、サイズ、形態自体を革命的に変えています。小ロットで、多数だしている。今までのような、部品のような作業ではなく、一つ一つの料理に対して何人かの人間がついて作る、かなり非効率的な方法ではあるけれど、ある意味で、簡単に彼の料理を際物だという風にして、すぐになくなるものだと捉えるのは違うのではないかと山内さんは言います。
もし、辻静雄がこの種類の料理を食べたなら、新しいという部分では、評価したのかもしれません。しかし、一方でその危険性についても考えたでしょう。
フェラン・アドリアの次の世代の担うともいえる料理人のデンマークにあるレストラン、ノーマは、新しいレストランを求めて世界中からお客様が集まる、すごく予約がとれない店だそうです。表現としては、自然を感じさせ、お花や葉っぱなど花が咲いたようなその盛り付けは一般的になり、世界的にも影響力を与えています。有名なのは、土の中に蕪が植わっている。モルトを土にみたて植木鉢ででてくる料理です。北欧のテロワール、自然と科学的な部分が表現されていてやはりレベルが高いと思います。これについては、辻静雄もおもしろがったかもしれません。
現在、フランス料理もグローバル化が進んでいて、メディアのせいもあるのでしょうが、
技術的な発掘よりも食材。世界中がそれを追い求めていて、今は、南米に目をむけ、まだおもしろい食材があるぞ。となっているそうです。
辻静雄は、短いスパンで料理をみようとしてはいなかったと思います。
料理人の卵に対して、今何を教えればいいか。ということをみようとしていたので、そういう意味では、辻静雄の時代からは20年、やはり今、若い人に教える基礎自体もかわってきているはずなので、私自身としては、学生に教えるべき基礎は何か、もう少し今いわれるかなと思います。と、八木さん。
そして、
辻静雄前校長は、教育、研究、その他にもいろいろな面をもっていらっしゃった。
当時、構造主義的な考えかを取り入れ、我々には、縦軸と横軸で考えるように。古い考え方なのかもしれませんが、フランス料理がどこからきているのか。技術的にもどういう風に姿をかえてきたのかを解釈しなければ料理がわかったことにならないし、次の料理を作ることもできない。いろんなものをみて、いろんなものを比べながら解釈しなさい。と教えられた。だからあれだけ広くフィールドワークをやっていた。そういう風に思います。自分で勉強してみて、フランスで歴史家が書いたもの以外に、正確なフランス料理を伝えているものがほとんどありません。やはり原典にあたらないと、誤った結論になってしまう可能性が高い。あまり、横のことばかり見ていると、それでいいのか。ちゃんとやれよといわれている気がします。と、山内さんは話します。
駆け足で辿った60年代以降の辻静雄の軌跡と、フランス料理の流れでしたが、
その姿はなくとも、私たちとともに辻静雄は今なおフランス料理を見続けているように思えた時間でした。