【エスプリ】ひとくちのエピソード(3)
トーニの店の大きなパン
鎧戸の蝶番が鳴く。
かろうじて通れるくらい窓が開くと、ウゲットはすき間にするりと身をすべり込ませた。
薄曇りの空に滲む月の光、犬が吠える。
芝生の上にしっかりと両足をつける間もなく、庭を一気に駆け抜けて、屋敷を取り囲む闇に沈んだ塀にへばりつく。
犬はもう吠えていない。乱れた息のかすかな音だけ。
どの窓にもろうそくの灯は見えない。
息を整えると、れんが塀をよじ登って越え、マジェンダ大通りに面する隣のパン屋の中庭に降り立った。
植木の茂みに身を隠し、開いた扉の奥に見える作業場の一角をのぞく。
天板を抱える華奢な腕。
青白い顔がこちらを向いて、動きが止まる。
見つめる長い睫毛の碧い瞳、口元がほころんだ。
咄嗟に茂みから飛び出すが、彼女はもうそこにいない。
*
レーズンやオレンジピールの入った甘い生地、ふわふわの大きなドーム型。
年の瀬のイタリアでは、菓子店やスーパーの一角がこのお菓子に占拠されます。
クリスマスに欠かせないパン菓子、パネットーネ。
その誕生はいろいろな物語で語られますが、ミラノのロミオとジュリエットの場合をお話しましょう。
*
15世紀の終わり、ダ・ヴィンチが《最後の晩餐》を描いた聖母マリア教会からほど近くに、ミラノ君主ルドヴィーコ・イル・モーロに鷹匠として仕えたデッリ・アテッラーニ家の邸宅がありました。
デッリ・アテッラーニ家の若者ウゲットは、隣でパン屋を営むトーニの美しい娘、アダルジーザと恋仲にありましたが、身分の低いパン屋の娘との恋は認めてもらえず、夜な夜なこっそり娘に会いに行っていました。
ところがある日、パン屋の下働きの小僧が病に倒れてしまい、彼女も夜中のパン焼きの手伝いに借り出されることになってしまいます。
このままでは二度と会えなくなってしまう。
ウゲットはいてもたってもいられず、わざわざみすぼらしいなりをして、パン屋の下働きとして雇ってらうことにしたのです。
とはいえ、近所に新しいパン屋が開店して、トーニの店の売り上げは落ちる一方。
どうにかしなければ。
ウゲットは若気の至りでルドヴィーコの鷹を勝手に二羽ほど頂戴し、それを売り払ってバターと砂糖を買い、パン生地に加えたのです。
甘いパンの噂はミラノ中に広まり、トーニの店にはお客さんの列ができるようになりました。
きわめつけはクリスマス。
ウゲットは甘いパン生地に、卵やシトロンの皮の砂糖漬け、レーズンを加えて焼き上げました。
町の人々はクリスマスの食卓にぜひ《トーニのパンpan del Toni》をと、こぞって買い求めます。
トーニの店は大繁盛。もはや貧しいパン屋ではありません。
二人は一緒になることを許されて、幸せに暮らしたということです。
*
トーニのパンだというのに、活躍するのはウゲットなのが気になるところですが、パネットーネ誕生のお話としては、ルドヴィーコの厨房で働くトーニとウゲットや、修道院で働くウゲッタの物語も語られています。
ミラノでは、他のヨーロッパの町にも見られるように、イブの夜、暖炉に大きな薪をくべる習慣があったそうです。
家族がみんな揃って暖炉を囲むと、家の主がオークの薪に火を点し、ワインやコインを炎に投じます。
ここで登場するのが三つの大きなパン。
この夕べのため、祈りをこめて表面に十字の切り込みを入れ、焼き上げたパンです。
ひとつのパンからナイフでひと切れだけ切り分けると、残りは暖炉を囲んだみんなで食べました。
切り分けたひと切れは、来る一年が幸多き年となるよう、お守りとして次のクリスマスまで大切にしまっておいたといいます。
これもまたクリスマスの《大きなパンpanett-one》にまつわるお話です。