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【百人一首と和菓子】心変わり

09<製菓>百人一首と和菓子

2013.09.04

<【百人一首と和菓子】ってどんなコラム?>

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お菓子について
 人の気持ち、特に恋心というものは、時が経つと何事もなかったかのように、相手のことを忘れ去ることが出来るもでしょうか?
 心の変わる様子を、こなし生地をねじって表現しました。
 白と小豆の2色のこなし生地で、恋愛期間における、相思相愛の時期と、気持ちが離れる時期の2つの様子を表現しました。

豆辞典
54 儀同三司母(ぎどうさんしのはは)
 平安時代の女流歌人で、生まれた年ははっきり分かりませんが、亡くなったのは996年です。息子の伊周(これちか)が儀同三司(准大臣)の地位になったので、通称として「儀同三司母」と呼ばれました。平安時代は女性が名前を知られるというのは、結婚を意味していましたから、今のように、公に名乗るということはしませんでした。
 正式な名前は高階貴子(たかしなのきし または たかこ)といいますが、名前が記録に残っているのは、地位が高かったためです。藤原道隆(ふじわらのみちたか)の正妻で、伊周(これちか)・隆家・定子(ていし)・原子(げんし)などの母でした。息子2人は貴族として高い地位に上り、定子は一条天皇の皇后となり、原子は三条天皇が皇太子時代の妃でした。一時は栄華を極めた一家です。

 歌の方は

 あなたが私のことをこれからも忘れないようにしようといわれる、そのような遠い将来のことは頼みになりませんので、そうおっしゃってくださった今日を限りとする命であって欲しいものです。

 この歌は、道隆と作者の恋愛初期のもののようです。一夫多妻制だった平安時代、恋愛は社会的地位を確保する手段のひとつでした。しかし、恋愛を出世の手段とばかり割り切れないのも人の心です。女性としては、男性の気持ちはどうせ移ろうものと分かっていながら、頼みにしてしまうこともあります。長くは続かない恋だと、どこか冷めた見方をするのは、男性を待つ身でしかない当時の女性の寂しさでしょう。相思相愛の最も幸せであるはずの時、死んでしまいたいという気持ちも分からないではありません。

 作者は文学的才能に恵まれていただけでなく、正妻になり、子ども達にも恵まれ、高い地位を得ました。しかし、夫道隆の死後、道隆の弟の道長の勢力が強くなり、息子達は次々に地位を奪われます。彼女も病気になって亡くなるのですが、40台だったと伝えられます。短い生涯に栄華と没落を両方味わった人物です。

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担当者情報

このコラムの担当者

演歌の星、和菓子職人
金澤賢吾

辻調の御言持(みことも)ち
重松麻希

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