REPORT

代表 辻芳樹 WEBマガジン

和久田哲也氏[第1回]

Chef’s interview

2008.12.05

聞き手:辻芳樹(辻調理師専門学校 理事長・校長)

12月の<今月の顔>は、11月に来校された『Tetsuya's』オーナーシェフ、和久田哲也氏のシェフズインタビューの模様をご紹介します。1年先でも予約がとれるかどうかわからないほどの超人気レストラン『Tetsuya's』。和久田氏がいかにしてここに辿り着いたのか、そして、世界中の食通を惹きつけてやまない和久田氏の料理の秘密はどこにあるのか。ロングインタビューではありますが、あえて内容のほぼ全てを公開していきます。


■皿洗いから『Tetsuya's』のオーナシェフまで■

●オーストリアに渡られてからの話から伺いたいと思います。持っていかれた所持金が底をつき、アルバイトを始められるわけですが、どうしてよりによって皿洗いを?
  持っていったお金は3~4週間ぐらいで底をついたのです。住む場所が必要ですから不動産屋さんに行ったのですが、この不動産屋さんのお父さんがギリシャ移民で、最初は皿洗いをしていたらしく、「バイトを紹介してやる」というこことで連れて行かれたのがレストランだったのです。当人はそこで帰ってしまって、シェフの"Tomorrow 9:00AM"という一言から僕の料理人人生が始まったと言えます。

●その頃にはすでに将来プロの料理人になる意思はお持ちでしたか?
  まったくありません。でも、皿洗いって仕事は料理人になるためにとても有益です。皿を洗っていると店全体が見渡すことができるんです。それでその店がどうオペレートされているかが自然にわかってくる。スタッフの動きなども見えて面白いと思いました。でも、何より楽しかったのは現地の人と仕事ができることでした。
 シンプルなシーフード料理専門の非常に忙しい店だったのですが、ある時、何人かが風邪をひいたり、怪我で休んだりして、人手が足りなくなった時に、「魚を卸してみろ」と言われて教えてもらいながらやってみると日本人の器用さもあったのかも知れませんが、妙に上手にできたのです。「巧いな」とか言われて、そのまま1週間も続けていたらさらに上手になって、時給もアップしてもらいました。そして6か月経った頃から、アシスタント的な仕事も増えて、少しずつ料理のことも教えてもらうようになったのです。

●普通はそれほど簡単にはいかないです。確か2軒のレストランのシェフに影響を受けられたということですが、どういう方々ですか?
  『フィッシュワイヴス』のシェフ、デニー・ホワイト氏と『キンセラーズ』のシェフ、トニー・ビルソン氏です。ビルソン氏はフランス料理のシェフで、ベイシックな料理の仕方も教えてもらいました。

●トニー・ビルソン氏からは決して妥協しないという姿勢を学ばれたそうですね。
  言葉がよくわからない私にこういう時にはこういう言葉を使うと教えてくれた恩人です。それに配達された魚を見て納得できないと戻してしまうぐらい妥協しない人で、その点はほんとうに凄かったです。普段は実に温厚な方なので、その変わりようには恐れをなしてしまうほど妥協しない人でした。

●哲也さんは料理の技術を直接調理場で仕込まれ、いわば独学で勉強されたわけですが、現場に入る前に調理師学校で勉強することに関してはどうお考えですか?
  今、現在多くのスタッフを使っているのでよくわかるのですが、それは重要なことだと思います。しっかりとした技術のベース、基本の知識が絶対に大切。それなくしては料理はできません。
 私の場合はトニー・ビルソンに手取り足取りそれこそすべてを教えてもらえましたが、それはこのシェフの才能のおかげです。私がもう一度生まれ変わって、料理人になりたいと思ったら、まちがいなく調理師学校に行きます。

●最終的に自分の店を持ち、料理人として生きていこうと決心したのはいつごろですか?
  1987年に運良く元 小さな元コーヒーショップでレストランにできるような物件が出たんです。当時 、私は別の店で仕事をしていたのですが、言葉も不十分だし、いつ解雇されるかも知れない、でも自分で店をやればそんなことにはならないと思っていましたし、働いているうちに、自分でもメニューや厨房をこんな風にしたいとか思い始めて、この店を手に入れて2年ぐらいでなんとかいい店にしようと思ったのです。

●実際にレストランで皿洗いから働き出して6~7年後に店を持つなんて普通は考えられないですよ。ご自分の店を持たれた時にはもちろん借金をされたと思いますが、その際、担保は「料理への情熱」と仰ったというのは本当ですか?
  ええ、本当です。『アルティモズ』という最初の店は開店してからの1年間は ちょくちょく記事としてはとりあげられていたのですが、鳴かず飛ばずでした。1年たったある日曜日に異例のことらしいのですがいきなり新聞の<グルメ評>に4つ星がつきました。
 この評価が出てからいきなり爆発的に客が増えだしたのです。アッと言う間に1年先まで予約が入ってしまい、手狭になった店の拡大資金を銀行に借りに行きました。頭金さえもなく、結局95%くらい借りました。その頃は人にお金を貸してくれていた時期だったので運が良かったと思います。「料理への情熱」が担保でしたが、その後名前も知られて売上が伸びたことで、銀行にも信用されるようになりました。この銀行とは今でもお付き合いしています。

●最初の『Tetsuya's』は何席の店だったのですか。
  38席です。詰めていただいて40人です。

●その頃の調理場スタッフは3人だったが、あとの2人には何もさせないで、哲也さん一人で40人分全部作っていたとか聞きましたが。
  すべてを自分で作りたくて仕方なかった。でもその結果、スタッフが店にいつかなくて、次々変わっていきました。いい勉強になりました。

●この業界に入って6~7年で店を持った場合、資金的に、また技術向上のスピード的にもなかなか大変だと思うのですが、つらい時にはどのように気持ちを支えました?
  好きな事をしていたのでつらいと思ったことがありません。実はスタッフも知らなかったと思いますが、最初の店を手に入れた時は全てを手放しましたので、2階建ての店の階段の下で寝ていました。トイレでシャワーしたりして。店を経営しているのに、帰る家がなかったわけです。でもよく皆が帰った後に、今でもそうですが、これとこれを混ぜるとどんな味になるかを試したりしていました。物を作るのが楽しくて仕方なかったです。
 食べる情熱はほんとうに大切です。美味しい料理を作るにはそのベースとなるいい素材がないと駄目ですし、その素材を見る目がないと駄目です。

●商売的に厳しかった時期に印象的な出会いがあったそうですが、それについて少しお話ください。
  フレッド・ストリートという大金持ちのオーストラリア人との出会いが大きいです。ある日曜日のこと、ほとんど客がいない昼に6人で来られて、食事の後、シェフに会いたいと言うことでお会いしたら「誰も客がいないが・・・」と言われました。私が「今日はお客様がいらっしゃらなかったらゼロでしたので、ありがとうございます」という会話をして、とにかく「料理が好きなんです」と言ったら「がんばれ!ちょくちょく来るよ」と言われました。そして、その日から2週間、毎日昼食を食べに来てくださいました。しかも、必ず4人以上の人数で来ていただき、同行された方々がまた別の方々を連れてきていただくようになったのです。
 こうやって客足が順調に増えてきた頃にまた「忙しいがどうか」と聞かれて「とても楽しくやっています。ありがとうございます」と答えたら、「地位と名誉(honor)とお金は追いかけると逃げる。好きなことを一生懸命やりなさい、そうすれば成功する。体に気をつけて頑張って!」と言われました。そして、最後に「Don't forget to smell the rose(バラの花の香りを楽しむことを忘れるな)」と言われたのが強く印象に残っています。

●それは自分を見つめ直すと言うこと?あるいは休むということ?
  両方だと思います。

●そして2000年に『Tetsuya's』はケントストリートに移転し、さらに世界的に有名になっていくわけですが、この時の店の移転はある意味大博打ではなかったですか。とりわけ資金的に。
  ケントストリートにあるあのビルはシドニーのランドマーク的な建物で、そこにあった日本の某企業の経営するレストランが2年くらい閉めていたので、資金があれば購入したかったのですが、その資金がなかったですから。で、銀行に資金調達に赴いたのです。さすがに今回はだめだと言われると思ったのですが、今までの3倍客が入ると言ってOKになりました。開店当初は170~180席で回していました。

●何名の厨房スタッフでですか?
  厨房は18名で、全スタッフでは45名くらいです。

●店を拡大した最大の理由は収益性を上げるためですか?それとも自分の料理の創造を還元するためですか?
  とにかく最初の店が飽和状態で、厨房なども狭く、動くスペースがない状態でしたのでより広い店を探してはいました。外のガレージで下準備をやっていたくらいですから。でも、新たな店舗は借りるのではなく、購入したかったんです。

●営業は夜のみ?オーストラリアはスタッフの勤務時間を厳しく守らないといけない。でもある程度利益も出さないといけない。収支的な基本的理念は?どのくらいまで抑えられると・・?
  まず考えたのは快適な空間。適切に回転する席数です。最初の1年は借金が大きすぎて、生きている価値が分からないくらい大変でした。上位スタッフの何人かには1年間我慢してくれと言い続けました。その頃は金曜日、土曜日は昼食時の営業もやっていて、夜は完全にマキシマムな状態で、これ以上入らないくらいでしたが、料理の質、食材の質は守ったつもりです。
 銀行は個人ではとても借りられない金額を貸してくれました。これだけ貸してくれたので、失敗したら生きる価値がないと思っていました。しかも銀行に提出した事業計画書はかなり無理なプランでしたので1年間は絶対に続ける必要がありました。大変でしたが仮に全額返せなくても銀行に信用してもらうことも大切なので、必死に1年間頑張ってみましたら、おかげさまで確実に借金は減りました。それで120~130席にしたのです。

Restaurant『Tetsuya's』 529 Kent Street, Sydney NSW 2000
tel: +61(2)9267 2900

次回は、シェフズ・インタビュー:和久田哲也氏 第2回です。
お楽しみに!