Vol.1『四川飯店グループ』オーナーシェフ 陳建一
第4回目ゲスト 『四川飯店グループ』 オーナーシェフ 陳建一
インタビュアー:辻調グループ校 校長・理事長 辻芳樹
【プロフィール】
1956年東京生まれ。日本に四川料理を広めた陳建民の長男。大学卒業後、父の経営する赤坂四川飯店にて中国料理の修業を始める。1990年には、父の後を継ぎ赤坂四川飯店社長に就任。また、テレビ番組「料理の鉄人」で“中華の鉄人”として人気を集める等、テレビ及び雑誌、料理学校の講師など幅広く活躍。現在経営する店舗は、16店舗を数える。(「四川飯店」「スーツァンレストラン陳」、「陳建一麻婆豆腐店」ほか)
■まずはご自身のことを■
辻:年がら年中ありとあらゆる取材を受けてられると思うのですが、今日は学生を対象にということでお願いしました。こういう機会は珍しいのでは?
陳:そうですね。いつもは学生さんの前では料理を作ってますから。
辻:料理を作りながらお話をしていただいているわけですね。
陳:料理って匂いとか「ジャッ」てい音とかがすごく大事だから、学生さんには近づけて見せてあげたいと思っていますよね。それがいちばん大事だから。
辻:やはり料理しながらのほうがお話しやすいとは思うのですが、今日はそれぞれの校種からの学生がいますので、料理そのものだけではなく、料理哲学、育成論、それに経歴も含めてのご自分の人生観などをお伺いしていきたいと思います。
陳:はい、わかりました。
辻:1956年生まれですね。おいくつですか?
陳:38歳ですね(大笑い)。
辻:よく言いますよ(笑)
陳:54歳です。
辻:陳建一というのは本名ですか?
陳:本名?ん、て言いますか父は陳建民ですけれど、父は帰化して「東」になったんですね。ですから僕の本名は東建一。
辻:演歌歌手のような名前ですね?
陳:そうそう、東建一なんですよ。
辻:お生まれは?
陳:東京ですね。
辻:お父様はかの有名な陳建民さんですが、お母様は?
陳:そもそも父と母の出会いが面白いんですよ。父は四川省出身なんですよ。故郷でもその後香港でも料理人をしていまして、日本に来たのは観光が目的だったんですよ。
辻:へぇ~、戦後ですか?
陳:もちろん戦後です。観光で日本に来たのはいいんですが、お金がなくなちゃったわけ。それでレストランでアルバイトを始めるわけです。その店ににうちの母がウエイトレスで働いていたんです。言っている意味わかりますか?現地調達っていうやつです。
(大笑い)
すっごいわかりやすでしょ。本当にこれ、運命なんですよ。だってうちの父が日本に来たときって日本語まったく喋れないんですよ。母が中国が話せるかってまったくだめですよ。その二人が一緒になっちゃうわけですよ。よほどですよ。
辻:よほど、何ですか?
陳:そりゃ、わからないですよ(笑)。でも、一度母に尋ねたことがあるんです。なんで父と一緒になったのかって。
そしたらうちの母が言いましたよ。父の料理を食べたら美味しかった、って、それでそれを日本の人たちに広めたい
って思った、って。その一心で一緒になったらしいです。
辻:お父様は既に料理人だったんですか?
陳:そうです。四川で既に料理人でしたから。でも、日本には観光で来たわけです。父は13歳の頃から料理の修業していましたから。
辻:陳さんの幼少期はどんな風だったのですか?
陳:僕は小学校、中学校と中国人が通う<中華学校>へ行きましたから中国語が話せるですね。小さいときの僕の遊び場は厨房でしたね。遊んでいると強火でいためる音とか包丁で材料を刻む音がするんですよ。これがなんともいえないいい音でしたね。それに父は料理を食べさせてくれるんですよ。それもできたての料理をね。
辻:そのような環境で育つともう料理人になるのは当たり前だったでしょうね。
陳:当たり前というよりもうちの母が僕を絶対に料理人にしたかったんです。ですから幼稚園の頃にね、寝る前に僕の耳元で3回こう言うんですよ。「お前はな、大きくなったらコックになるんだよ」って。それで料理人になりました。
(笑い)
辻:料理の勉強はいつごろから?
陳:料理の勉強って言っても僕は料理の学校へは行っていないですから。僕は生意気にもね、大学行かせて
くれって言って行かせてもらいました。
辻:大学に行かれる前には料理の勉強をされたのですか?
陳:してないですよ、ぜんぜん。
辻:ただ先ほども仰ったように料理というものを見てこられた。
陳:そう、もう環境がね。まな板で材料を切っている人とか炒め物をしている人とかを目の辺りにしているから、料理の環境には慣れていましたね。
辻:大学行かれているときも料理をやりたくてうずうずしたのでは?
陳:全然。学生のときはむしろアルバイト、ホールのアルバイトに精を出していましたね。あらゆるジャンルのサービスを経験しましたね。
辻:大学在学中はお父様のお店ではアルバイトしなかったのですか?
陳:それはいちばん最後。その前は蕎麦屋、うどん屋、アメリカン倶楽部っていろんなところでアルバイト。
辻:それはどうしてですか?
陳:いや、勉強したいから。いろんなサービスってどういうことかな?ということを。
辻:お店自体の?
陳:将来自分が店を経営していくわけだからいろんなことを知っておいたほうがいいに決まっているわけですから。
辻:金銭的な面での勉強はされなかったのですか?
陳:ほとんどしていないですね。どちらかというとあれば全部使ってしまうタイプですから。
■次にお父様 陳建民氏のこと■
辻:陳さんの話を伺う際にはどうしても偉大なる陳建民さんの話をせざるを得ないのですが、四川から香港、そして、その後日本に帰化されるわけですが、私の知っている限りでは戦後は広東から多くの方々が日本に帰化されたと思うのですが、四川からは?
陳:少ないですね。
辻:ということはお店を作られるにいたって四川料理を広めることは大変困難だった?
陳:そうですね。麻婆豆腐って皆さん知っていますよね?でも、当時、昭和27年の頃って麻婆豆腐って誰も知らなかったですからね。
辻:でも、当時は麻婆豆腐を作る素材なんて何もなかったでしょうね。
陳:豆板醤がなかった。だからうちの親父は自分で豆板醤を作って、それで少しずつ広めていったんですね。それに山椒もない。日本のとはちがいますからね。うちの父は料理のアレンジが巧かったですから、ですから担担麺でも本場のものは汁がないものです。それをより食べやすいようにアレンジしていったんです。
辻:今なら誰でも知っているような料理ですよね。
陳:ええ、大体の人は知っていますよね。
辻:そういった料理はほとんど陳先生が広めていかれたんですよね?
陳:そうですね。海老チリもそうですしね。ケチャップを使ってあんな料理は本場にはないですから。
辻:調味料はどのようにされていたのですか?
陳:あるものを使って自分で作った。
辻:どのようなものが?
陳:例えば豆板醤、甜面醤も作った。
辻:それから広まっていくわけですね。
<『四川飯店グループ』オーナーシェフ 陳建一氏>次回の更新は2月4日(金)を予定しています。