【エスプリ】ひとくちのエピソード(5)
海の怪物たち
黄ばんだ羊皮紙にセピア色のインクで描かれた古い海図。
風の薔薇と呼ばれる羅針図が幾何学的な花びらで方位を示し、ガレー船が海原を漂う。
巨大なロブスターが海に落ちた人間を襲い、
クジラのごとく潮を吹く半獣半魚の怪物が、そのロブスターに襲い掛かる。
帆船を海中へと引きずり込むのは、船首に、マストにからみつく、吸盤のついた巨大な脚。
©manabu oda
かつて、イギリスで悪魔の魚と呼ばれていたタコ。
岩陰に潜んで黒い煙を吐く、灰色の禍々しい姿が薄気味悪くて、それを口に入れてみようなんて思いもしませんでした。
とはいえ、ラテン系の人たちは違います。
とりわけ地中海に面したところに住む人たちはそのグロテスクな姿にひるむことなく、昔からおいしくい料理して、お腹を満たしてきました。
もちろん、イタリアも例外ではありません。
イギリスではタコを《八本脚oct-pus》と言うのに、イタリアでは《脚だくさんpoli-po》と呼びます。
異形のものとはいえ、細かいことは気にせずに受け入れたということでしょう。
脚を数えるのをサボっただけですって?その通りかもしれません。
どちらにせよ、イタリア人だって、タコにシンパシーを感じているのではないようです。
むしろ、その調理法に見られるのはおぞましいほどの敵意。
トマトに溺れさせる《水攻めaffogato》、ワインミストのサウナ牢に閉じ込める《禁固in galera》、ピリピリの唐辛子を浴びせる《煉獄行きin/al purgatorio》。
たんと打ち据えてから、鍋に強制連行するのです。
うまみのギュッと凝縮された一皿に我々は舌鼓を打つことうけあいですが、これではタコがあまりに哀れじゃありませんか。
どうしてそんな仕打ちをするのでしょう。タコが船を襲うからでしょうか。
はるか昔から、ときおり浜に打ち上げられ、漁の網にかかっては人々を驚かせた巨大生物。
少し怖いけれど、好奇心にはかないません。
不吉だ、どこから来たのだろうと呟く大人たち。
おそるおそるつついては、まだ生きてるだの、動いただのと、子どもたちも騒ぎ立てます。
いつも食べてるけど、こんなに大きいのは知らないよ!
この《イカ》は何歳なの?
そう、現実に現れる多足の巨大生物といえば、タコよりもむしろイカ。
それだというのに、頭から生えた脚で船を襲う怪物は、たいていタコの姿で描かれます。
証拠不十分ではありますが、おそらく濡れ衣。冤罪です。
タコはイカをさぞや恨めしく思っていることでしょう。
さて、そんな確信犯のイカもおいしくいただいてしまう長靴半島の人々ですが、注目すべきは墨をも使ってしまうことでしょう。
ワタを好んで口にする日本人には負けるよ、という声が聞こえてきそうですが、イカ自体をその墨で煮てしまったり、リゾットやパスタに加えてみたり、真っ黒な見た目の料理に、はじめて見る誰もがギョッとします。
素敵なレストランでデート中、整った顔立ちときちんとした身だしなみが魅力の彼が、イカ墨の一皿をいただきながら、黒く染まった歯と唇でニコッと微笑んだなら、彼女は彼の新しい一面にキュンとするかもしれません。
ただし、恋の終焉が訪れる可能性もたっぷり含んだ、ドキドキハラハラのギャンブル食材です。
イカ墨は食べられるほか、黒褐色のインクとしても使われます。
この色の名はセピア。
厚い甲を持った墨のたくさん取れるイカをイタリアではseppiaと呼ぶので、懐かしく繊細な響きのするセピアという音ですが、磯の香りが鼻をつくこともあるかもしれません。
光の届かない海の底では、今もぬめぬめした肌をこすれ合わせながら、奇妙な姿の魑魅魍魎が混沌をつくっているのでしょう。
時々こちらの世界に上がってきては、果てからの遣いとされ、恐れられ、あがめられ、嫌われる彼らですが、そんな怪物もありがたくいただいてしまう、グルメな私たちです。