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「鳶(とび)に油揚げをさらわれる」
当然自分が手に入れるはずのものを、思いがけず横あいから奪われ、呆然とすること。 |
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普段の無秩序な食習慣がたたったのか、入院する羽目になってしまった。医師からできるだけ安静にするようにと、宣告されたが、コラムの締め切りが迫っている。パソコンぐらいならと許可されたので、このコラムを打ち込んでいる。
今回のテーマは「鳶に油揚げをさらわれる」ということだが、病室には資料もなく、頭の中でどんなコラムにすればよいかと考えるが、なかなか思い浮かばない。病室から外を眺めても、カラスはいるが、鳶は見かけない。ただ、入院中の楽しみである朝、昼、夕の食事には、テーマの油揚げが多種にわたり本当にうまく使われている。油揚げの材料は、周知のとおり大豆であるが、大豆食品は高蛋白の健康食品であり、さらに安価であるという利点もあって、病院食には多く利用されているようである。 |
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私の入院している奈良のおかたに病院は、3年前にリニューアルされた際に、クックチルや真空調理といった新調理法を導入され、料理雑誌にも紹介されている、病院給食の最先端に位置している病院である。調理室を預かるのは本校の卒業生で栄養科長の小枝弘明氏で、新調理法の旗頭として全国各地の給食現場から請われ、
指導にも行っている
。
この調理室では、150有る病床の入院患者の食事以外にも、デイサービスを行っている診療所などへ提供する食事の準備もしており、いわばセントラルキッチンも兼ねているため、最高で550食の提供が可能になっている。また病院の主催するイベントの料理を提供することもあるそうだ。
調理室は、仕込み場・調理場・盛り込み場の3つに分かれている。業者から入荷した食材は、油虫などの害虫の侵入を防ぐためにダンボールや包装箱から出してから、仕込み場に入れられる。仕込み場では、野菜と肉・魚介の2つのラインで各々下処理され、調理場との仕切りになっている冷蔵庫に保管される。この冷蔵庫は前と後ろ両面にドアがついており、材料は仕込み場で料理にあわせて下処理され、この冷蔵庫にしまわれる。基本的にこの仕込み場では1人の調理師が下処理全てをまかなっている。
下処理された食材は、冷蔵庫を経て調理場にまわされ、ここで調理される。調理室では、最新の電磁調理器やスチーム・コンベクション・オーブン、ブラストチラー(急速冷却機)、ティルティング・パン(大量調理用機器)、ライスロボ(自動洗米炊飯器)、真空パック機を駆使して調理が行われている。基本的に、御飯と味噌汁以外は翌日分を調理してブラストチラーで冷却後、冷蔵保存しておき、提供する前に、飛行機の機内食などによく使われている再加熱カートで、芯温78℃で35分以上加熱する。食事を提供するお盆の左上部には加熱プレートと電極が取り付けられており、他の料理は冷蔵状態のまま、この加熱プレートの上にのせられた器のみが加熱されるため、熱い料理は熱い状態で、冷たい料理は冷たい状態で提供できる。この調理場を担当する調理師は1人で、他に盛り付け場に3〜4人の調理師がいるが、盛り付け時以外は調理場の補助をされているのは、もちろんのことである。
こうして再加熱カートで再加熱された料理の盆に、御飯と味噌汁をのせ、配送用のカートに移し、病室のある各階へ搬送する。デイサービスの料理の場合は、熱い料理と冷たい料理に分けて保温用のボックスに入れ、味噌汁などは現地で温めなおして提供するそうである。 |
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小枝栄養科長に、調理上で気をつけていることを伺ったところ、次のような回答をいただいた。曰く、料理が出来上がってすぐに提供するのではないため、食中毒には万全の注意を払っているのはもちろんのこと、病院食は塩加減がむずかしく、主菜はある程度しっかりした味付けにし、全体には薄味にするよう工夫している。同じ理由で、野菜や乾物の煮物は、通常であれば煮た後に煮汁に浸けて味を含ませるが、煮汁が素材に浸透すると塩分が高くなるので、煮あがったものは汁気を切って味を浸透させない。また、焼き魚などは、再加熱時に乾燥することを考慮に入れ、スチーム・コンベクション・オーブンで加湿しながら焼くようにしている、などであった。
今後このような、新調理法を駆使した集団調理のシステムがどんどん開発されて、マニュアル通りに調理すれば、誰にでも均質な料理が提供できるようになる。我々料理人は、これらの機械に使われるのではなく、十分に使いこなすように日々切磋琢磨しなければいけないものである。 |
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さて話を本題に戻すが、「鳶に油揚げをさらわれる」である。鳶は本当に地上数十メートルの上空から急降下して、点にも見えない獲物を捕らえる。以前ケニヤの日本大使公邸に出向していた職員から、ケニヤ人は2キロ先のキリンが道路を横断するのが見えるという話を聞いたことがあるが、鳶の視力はこの何倍も優れていることが推察できる。さらに、あるテレビ番組で、本来は肉食の鳥である鳶が油揚げを食べるのか調べたところ、本当に油揚げを食べたそうである。 |
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油揚げは先にも記したとおり大豆から作られる。「稲荷ずし」をはじめ、関西では、浪花のファーストフードとも言える「きつねうどん」(辻調食の世界『郷土料理探訪』→大阪・「きつねうどん」参照)をはじめ、いろいろな料理に使われている。日本料理では油揚げを使った料理を「信太(しのだ)」、「信田(しのだ)」と呼ぶ。「きつねうどん」は「信太うどん」、「稲荷ずし」は「信太ずし」とも呼ぶのである。これは、歌舞伎や浄瑠璃で「芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」(通称「葛の葉」)として度々上演されている信太妻(しのだづま)の物語から取ったものである。
平安時代中期の陰陽師である安倍晴明の父、安倍保名が信太山(現在の大阪府和泉市にある)の森の中で狐狩りのために殺されかかった白狐を助けたところ、この白狐が美しい女の人に化け、恩返しに来た。彼女は葛の葉と名乗り、やがて保名と結ばれ妻となり、晴明を出産する。月日が流れ、幼い晴明が母の影に狐を見て驚いたため、これを恥じた葛の葉は障子に「恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる 信太の森の 恨み葛の葉」と書き残して信太の森に帰ってしまう。幼い晴明が母を恋しがるので、ある日保名が晴明をつれて信太の森に行くと、葛の葉が現れて晴明に「知恵の玉」を授ける。これが世に言う「葛の葉子別れ伝説」である。この話から狐の住む信太の森の名を取り、俗に狐は油揚げを好むと言われるので、油揚げを使った料理を「信太」と呼ぶようになったのである。
その後、晴明は京都に上って陰陽道と天文学を極め、陰陽道の大家として貴族世界に重んじられ、子孫の土御門家は後々まで陰陽頭として栄えていったのである。 |
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油揚げは、料理にコクをつけたり風味を増すのによく使われる。野菜や乾物を具材とする味噌汁や炊き込み御飯を作るときは、油揚げを刻んで加えると、油揚げの油分のおかげで一段とコクと風味が増すのである。また、「狐酒」と呼ばれるお酒がある。これは熱湯をかけて油抜きした油揚げをよく焼いて器に入れ、熱燗にした日本酒を注いだものである。この場合、薄揚げよりも厚揚げを使う。こんがり焼いた厚揚げの香ばしさと大豆の甘みがかすかに日本酒に移り、非常に美味しくなる。酒を飲んだ後は、この厚揚げに少し醤油をたらして肴としてもよいであろう。 |
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