|
|
「秋刀魚(さんま)が出ると按摩(あんま)が引っ込む」
秋刀魚(さんま)は旬である秋に、脂がのっておいしくなり、しかも安く手に入るので、庶民の間でよく食べられた。秋刀魚には栄養が豊富に含まれているので、食べた人々は元気になり、按摩(あんま)に行かなくなるほどだったということ。 |
|
|
|
さんまは「秋刀魚」の字が当てられるように、秋に大量に獲れる魚である。大衆魚である秋刀魚は、旬を迎える秋には価格が安くなり、庶民の食卓にのぼることが多かった。この栄養価の高い秋刀魚をたくさん食べた庶民の間では、病人が少なくなったということわざである。
ここでいわれる按摩(あんま)とは、体をもんだり、さすったり、たたいたりして患部を治す療法で、奈良時代には外傷、骨折などの治療も行なったが、のちにこれらは医師の仕事となり、もんだり、さすったりする治療だけが民間療法として残った。現在のものは、江戸時代に体系化された術式の流れをくむものである。 |
|
秋刀魚はえさを求めて北へ南へと移動している回遊魚である。夏は北の涼しい海で過ごし、秋になると南下をはじめる。秋刀魚は北の冷たい海の中で、人が寒くなるとコートを着るように脂肪を身につける。この脂肪が秋刀魚のうまさを際立たせている。しかし、南下して温かい海に来るにしたがって脂肪が落ちるので、特に脂がのった秋刀魚を求める時は、北海道や三陸沖で水揚げされたものを選べばよい。
また、秋刀魚は南下しながらどんどんえさを食べ続けて成長していく。房総沖を過ぎる頃には、からだが大きくなり、各種ビタミン類の他、中性脂肪を下げる効果があるといわれるEPA(エイコサペンタエン酸)や、学習や記憶などの機能に関与するDHA(ドコサヘキサエン酸)などを多く含むようになる。このことわざは江戸での話。そして、江戸はちょうど房総沖である。 |
|
秋刀魚には胃というものがないので、消化物を気にせずにはらわたまでおいしく味わえる。佐藤春夫の「秋刀魚の詩(うた)」の抜粋に「さんま、さんま、さんま苦いか塩っぱいか……」という説がある。ここで出てくる「苦い」というのがはらわたの味と思っている方が多いが、実は苦いのは秋刀魚の鮮度が少し落ちているからである。鮮度のいい秋刀魚のはらわたには甘味があり、鮮度が落ちると、この甘味に代わって苦味が強くなってくるのである。また、最近の漁法は秋刀魚を一網打尽にするがごとく、大きな網で捕獲するため、からだからうろこがはげやすくなる。そのうろこをも食べ続ける秋刀魚の習性が、はらわたや身の風味を落としてしまっているようである。 |
|
落語で有名な「目黒の秋刀魚」は、実際にあった話である。季節は秋、三代将軍徳川家光がお供を引き連れて目黒に鷹(たか)狩りに出かけた。家光はさんざん鷹狩りを楽しみ、お腹が空いてきたので何か食べ物を所望するが、お供の者は誰かが用意しているだろうと何も用意をしていなかった。当時の目黒は草深いところで、買い出しに行くにも店がない。そんな所へ、何ともいえぬいい香りがプーンと流れてきた。近くの農家で彦四郎爺さんが、脂のたっぷりのった秋刀魚を焼いていた。家光はこの秋刀魚を所望するがお供の者は「あれは下々の者が食す秋刀魚という下賎な魚にございます。お上が召しあがるようなものではございません。」と断るが、いい匂いが空きっ腹には我慢できない。「よい、下々の食するものがわからねば、上に立つ者とは言えぬ。苦しゅうない、秋刀魚をこれへ持てー。」と食べた秋刀魚の美味しいこと。思う存分に食べて満足してお城に帰った。ところが、それから家光はすっかり秋刀魚に病みつきになり、夢にまで秋刀魚が出てくるようになった。しかし、格式高い城中では秋刀魚が食膳に登場するはずもない。そこで家光は家来に「どうしても秋刀魚を食べたい。」と切望するが、あれからかなり日が経っていて、秋刀魚のシーズンは終わっていた。やっと1尾見つけて料理する。脂を充分抜き、小骨も残らず取り除き、やけどをしないように冷めたものをお出しするが、前のものとは似ても似つかぬ、かすかに秋刀魚の匂いが残る程度のものになってしまった。家光はとりあえず一口食べたがかなりまずい。「これはどこの秋刀魚じゃ。」と尋ね、家来の「品川沖で獲れたものにございます。」の返事に、家光は「なに、品川?品川はいかん。秋刀魚は目黒に限る。」と宣言した、という話である。 |
|
今回紹介する「秋刀魚わた焼き」は、秋刀魚をフライパンで焼いて、秋刀魚のはらわたに調味料を加えたたれをからめて焼き上げたものである。秋刀魚のはらわたが生臭いと思われがちだが、フライパンで焼くことによって非常に香ばしく、深みのある味に仕上がる。 |
|