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「『古典』と『和菓子』だって?もう、いや!」と逃げ出さないでください。想像とおいしさとちょっぴり恋の世界を味わって頂きたいだけですから。百人一首の和歌を読んで私たちなりに解釈し、イメージを膨らませて作ったのがここにご紹介するお菓子です。和菓子の世界には、和歌や物語を元にして想像力を働かせ、作品に表現するという楽しさや遊びがあるのです。このページを通して、日本の良さを見直して頂けたらうれしく思います。 |
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「網代(あじろ)」は、冬に氷魚(ひお)を捕る仕掛けのことで、竹や木を編んで作ります。和歌が詠まれた当時(平安時代)、宇治川の風物詩でした。また、「網代木(あじろぎ)」は、網代を仕掛けるために打った杭のことです。晩秋から冬にかけて琵琶湖から宇治川へと体長5〜6cmの鮎の稚魚が流れてくるので、網代を使って捕ります。この時、鮎の稚魚が白魚に似て氷のように体が透きとおって見えるため、氷魚(ひお)と呼ばれます。
この他、宇治川の風物詩とされているものには、「鵜飼」「柴舟」「水車」「柳」「川風」「川霧」などがあり、自然が作り出す風景は、宇治を訪れる当時の人々の目に珍しく映ったようです。
宇治川に立ちこめた川霧、そこから姿をあらわした網代木の風景を、抽象的にイメージしたお菓子です。
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64 権中納言定頼(ごんちゅうなごんさだより)
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生没年は995〜1045年。今からちょうど1000年前の平安時代中期に活躍した人物です。55番の歌の作者藤原公任(ふじわらきんとう)の長男です。父親も母親も地位の高い人で、家柄も良かったので、正二位(しょうにい)権中納言という高い位まで出世し、管弦(かんげん=音楽)や書の才能にも秀でていました。また、私生活では当時の貴公子らしく、艶っぽい話が多く、「百人一首」の歌の作者である小式部内侍(こしきぶのないし=和泉式部の娘で60番の歌の作者)・相模(さがみ=65番の歌の作者)・大弐三位(だいにのさんみ=紫式部の娘で58番の歌の作者)などと恋の噂があったようです。百人一首の小式部内侍の歌は、定頼が詠みかけた和歌の返歌です。
人柄としては少し軽率な面もあり、時には、天皇や関白の怒りを買う行いもあったと伝えられます。やんちゃな金持ち坊ちゃまという感じでしょうか。
歌の舞台は京都の宇治。今も京都府南部にある宇治市は、美しい自然の残る落ち着いた場所ですが、平安時代には貴族の別荘が多くあり、遊楽の場所として有名でした。宇治は平等院で有名ですが、これは定頼が亡くなってからできたので、この歌ができた時にはまだありませんでした。『千載和歌集』(せんざいわかしゅう)にも同じ歌が取られていて、これを見れば、作者が宇治に行った時に詠んだ歌だと分かります。
夜が白々と明けようとするころ、宇治川にかかっている霧が所々晴れてきて、川の浅いところにあちこち立ててある網代木が次々と現れてくることだ。
地味な景色ですが、お芝居か映画の一場面で、深い霧がだんだん晴れてきて、何かが姿を現わして行くような情景に感じられます。
定頼が活躍した当時は、紫式部によって書かれたばかりの『源氏物語』が貴族の間でもてはやされていました。続編の光源氏の子ども達の時代を描いた部分は、宇治を舞台に物語が繰り広げられるため、この土地への関心は急速に高まったと思われます。そんな中、定頼がこの歌を詠んだようです。 |
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