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「『古典』と『和菓子』だって?もう、いや!」と逃げ出さないでください。想像とおいしさとちょっぴり恋の世界を味わって頂きたいだけですから。百人一首の和歌を読んで私たちなりに解釈し、イメージを膨らませて作ったのがここにご紹介するお菓子です。和菓子の世界には、和歌や物語を元にして想像力を働かせ、作品に表現するという楽しさや遊びがあるのです。このページを通して、日本の良さを見直して頂けたらうれしく思います。 |
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楓(かえで)の名は「蛙手」から変化したといわれます。字の通り、葉っぱの形がカエルの手に似ていることに由来するとか。また、楓は鶏冠(けいとう)のように紅いことから「鶏冠木」とも書かれました。秋に葉っぱが赤く色づくことから楓のことを紅葉(もみじ)ともいいます。紅葉した秋の山々を抽象的にイメージしたお菓子です。
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26 貞信公(ていしんこう)
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本名は藤原忠平(ふじわらのただひら)です。「貞信公」というのは諡(おくりな)で、これは、亡くなったあとに、生前の行いや徳に基づいて贈られる称号のことです。生没年は880〜949年だといわれますから、今から1100年ほど前の人です。時代としては平安時代の前期です。35番の歌の作者の紀貫之とほぼ同時代に活躍しています。
忠平は、歌人としての才能よりも、政治的手腕の評価が高いようです。日本史で重要人物である藤原基経(ふじわらもとつね)を父に持ち、母も天皇の孫と地位が高かったので、20歳で参議(さんぎ)になってからは着実に昇進し、最終的には関白太政大臣となりました。律令政治の基本法といわれる『延喜式(えんぎしき)』は、忠平の兄、時平(ときひら)が天皇の命を受けて編集を始めたもので、時平の亡くなったあとを受け、忠平が完成させました。『貞信公記』という忠平の日記からは、儀式作法に関心が深かったことが読み取れるようです。
さて、政治家として有能な彼は、
どんな和歌を残しているのでしょう。
歌の意味は、
小倉山のもみじ葉よ、もしもおまえに心があるならば、もう一度、天皇がここに来られる時まで、散らないで待っていてほしい。
というほどの内容です。行幸は「みゆき」と読み、天皇の外出のこと。同じ「みゆき」でも「御幸」は上皇・法王・女院の外出なので、ここでは、天皇の外出のことをいっているのだと分かります。宇多法王が大堰川(おおいがわ)を訪れられた時、紅葉のあまりの美しさに、息子である醍醐天皇に見せたいといわれたことを受けて、即興的に詠んだ歌と伝えられます。この時代、貴族の間では紅葉の名所といえば、奈良の龍田川でしたが、この歌が詠まれたことによって、京都の小倉の山への紅葉狩りが定着していったといわれます。
政治家としては摂関家の繁栄の基礎を築き、和歌によって紅葉の名所を定着させた忠平は、30歳で兄の後を受けて一家の長となりましたが、人柄は温厚であったと伝えられます。
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