水野 | 前回、ニニョンの「ラリュ」という1920年代に話題になったレストランのことをとりあげましたけど、彼はそのレストランを開く前は、ロシアの皇帝とかに仕えて、すごい料理をつくっていたんですね。材料の仕入れなんかも金に糸目をつけないという感じだったでしょう。その延長にレストランがあった。 |
杉山 | 「ラリュ」でもお客に来るのは王侯貴族とかすごい有名人が中心だったわけだから、請求するお金っていくらでもよかったんじゃないかね。 |
水野 | 料理人て不思議なもので、自分が築き上げてきたものっていうのは、そう簡単に変えられない。ある時期からもうこういう料理を止めて、形変えて行こうかって言ってもなかなかできないものですよ。自分のカラーというかスタイルが決まっちゃうわけだから。ポワンという人は、ひょっとしたら家庭料理からそのまま入って、それが素直に洗練されていって、プロとしてのいい意味での単純化とか簡素化に流れ込んだかもしれないね。でもニニョンていうのはやはり皇帝に仕えるとか、そういうふうに歩んできた歴史が違うから、料理も違う。 |
杉山 | 職場がパリであったか地方であったかとう違いもいくらか入ってくるのかもしれない。貴族連中というのはパリを中心に生活していたわけだから。 |
水野 | ポワンは1923年にピラミッドを開店して、33年にミシュランの3つ星になった。1930年代くらいから自動車がどんどん普及して皆が地方へ行くようになって、地方の料理人が注目を集めだしたわけでしょ。たとえばポワンがそういう時代にいなくて、片田舎の人たちだけを相手にやっていたらこんなに有名にならなかったかもしれない。 |
杉山 | 第一次大戦後の食の大衆化というか、レストランの市場開放があったのと、自動車が普及して、道路が整備されたことと、相乗効果があったのかな。 |
水野 | 道路といえば、パリからリヨンを通ってニースへ向かう国道7号線が有名ですね。夏には南仏にバカンスに行く人が大勢この道を通った。あと地図を見ると、国道6号線が、7号線の西側をほぼ平行に走って、リヨンで7号線といったん合流、そこから西へ方向をかえてイタリアとの国境へ向かってます。 |
杉山 | ピラミッドがあったヴィエンヌと、ピックのレストランがあったヴァランスは7号線、デュメーヌのコート=ドールはブルゴーニュ地方のソーリューというところで、6号線沿いだった。バカンスに南に下っていこうというフランス人の移動のルートに、3大料理人がきちっと入ってたということですね。 |
水野 | ポワンがそこで店をやったのは、自分の仕事を多くの人に見てもらえるという、いい場所だったのかな。たとえばあれがグルノーブルでもだめだったかもしれないし。不思議だね、料理人もどういうきっかけで一流になったり、名前を知られないで終わってしまったりするかわからない。 |
杉山 | いまでこそ、ミシェル・ゲラールみたいに、ガスコーニュ地方のすごい辺鄙(へんぴ)なところに店があっても、世界中に情報がながれるけど、当時ではそういうところに店があったとしてもだめだったでしょう。 |
水野 | ポワンの「ピラミッド」は、世界中のVIPや女優や小説家がお客に来るような有名な店になりましたけど、ポワンは自分のレストランのことばかり考えているのではなくて、若い人たちを育てることにも熱心な人だった。ピラミッドで修業したシェフはたくさんいるんですよ。彼の弟子だった人が1960年の後半からすごく活躍しはじめて、次々ミシュランの3つ星をとっていますね。ボキューズとトロワグロ兄弟、フランソワ・ビーズ、ルイ・ウーティエ、クロード・ペローとか。アラン・シャペルもピラミッドで修業してます。そしてフランス料理もどんどん変わっていくわけだけど。 |
杉山 | じゃ、この次は、このまま時代の流れに沿って、ポワンの弟子のだれかから1人とり上げようか。となるとやっぱりポール・ボキューズなのでそれをやりましょう。 |
水野 | 川北先生には、ボキューズのデザートで有名な、ウ・ア・ラ・ネージュをつくってもらいましょうか。 |
川北 | いいですよ、得意なんです。期待してて下さい。 |